何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

米澤穂信『愚者のエンドロール』の感想


(2017年9月読了)

 『古典部』シリーズ2作目である。前作『氷菓』(当該記事)の読了後、そのまま読み継ぐ。作中の時間軸的にも、発表順としても続篇と言ってよい作品である。
 それでは本作も、まずは概要を記す。

 夏休み終盤、神山高校では文化祭の準備が続けられていた。折木奉太郎(おれき・ほうたろう)ら1年生ばかり4人で構成される古典部もまた、古典部文集『氷菓』を文化祭で出品すべく、各自制作を進め、編集会議を開くなどしていた。
 そんな折、「わたし、気になります」が口癖の古典部部長・千反田える(ちたんだ・――)は、部員たちを“試写会”へと誘う。2年F組がクラス展示として文化祭で上映するという、自主制作ビデオ映画の試写会だという。
 しかし、観せられた推理もの仕立てのその作品――仮称『ミステリー』には、解決編がなかった。
 脚本を担当していた本郷真由(ほんごう・まゆ)の体調不良により、この先の展開は描かれていない。画面に示された情報から犯人は指摘し得る。誰が犯人か、その理由を考えて欲しい。
 2-Fのまとめ役にして『女帝』の異名をもつ入須冬美(いりす・ふゆみ)は、奉太郎たちに依頼する。
 気乗りしないながらも、えるの好奇心にも絆され、奉太郎は2-F有志による結末予想について意見を述べる、オブザーバーの立場で参加することを承諾する。

 かつての鉱山地区の、廃墟の密室で行なわれた殺人の犯人は誰か? どうやって殺したのか?
 この問題に対して、2-Fの面々が繰り出す見解は様々だった。
 トリックなど大して気にせず、映像としての娯楽性を追求した解決案。
 提示された情報から机上の論理を展開し、犯人を指摘した解決案。
 そもそもミステリーであること自体に懐疑的な立場に立った、荒唐無稽な解決案。
 そのいずれも、古典部は否定する。
 若干の不本意を感じながらも、こと足れりとした奉太郎に、しかし入須は追いすがり、改めて「探偵役」を依頼する。「あのビデオの正解を見つけて欲しい」と。
 奉太郎は自らを信じて推理を展開する。万事が収まるべきところに収まったかに思えたが、古典部員たちの言葉に、奉太郎は再考を余儀なくされる。
 本郷が考えただろうラストと、この“事件”の真相。それらに奉太郎が辿りついた時、そこには、あくまで厳然として揺るがない入須の姿があった。えるは、自分がなぜ本郷に共感し得たのか、その理由を恥ずかしげに明かすのだった。

 …ビデオ映画という劇中劇での殺人についての推理という構成は巧い。これならば、高校生の日常と非日常的な事件を矛盾なく両立できる。
 私が通った高校も、神山高校ほどではないにせよ“行事の殿堂”だった。その文化祭で、映画ではないが2クラス合同で演劇をやったのを思い出す。脚本に演出にキャストにと、私も大いに楽しんだ。脚本も演技も衣装も道具類も、本職のそれらに比べればもちろん未熟に違いなかったが、妥協も打算もなく、賃金やら待遇にまつわる諸々もなく、自然と纏まって仕事ができた組織とは、実はあの頃の我々ではなかったか、と今は思う。
 神山高校2年F組のビデオ映画もまた、そんな未熟な高校生たちの組織で製作されていた。どうにか劇を作り上げられた我々と違っていたのは、自然と纏まるのではなく、自然と崩壊の危機に瀕していた点である。
 その崩壊を食い止めようと尽力するのが『女帝』入須なのだが、彼女の存在を除外すれば、脚本担当の本郷と周囲の生徒たちの関係は、『氷菓』で描かれた33年前の事件と相似形をなしているように思える。逆に言えば、『氷菓』の関谷純は、入須のような助けが現れなかった本郷なのではないか。

 入須の依頼を受け、古典部と奉太郎は彼女のテコ入れを手伝うことになるわけだが、奉太郎もまた、本郷、関谷純と同じような状況に立たされる。「才能」とか「技術がある」とか「探偵役」とか、作中では色々な言葉が使われているが、『英雄』という一言に換言してしまってもよさそうである。
 天に才を与えられた者を『英雄』と呼ぶのなら、折木奉太郎は『英雄』であるか否か。本書は、それを奉太郎自身が自問自答する話である、と言えないだろうか。ただし私には、最後まで彼の自問自答に答えが出たように思えなかったのだが。
 その文脈で言うと、最後の問答シーンで、入須の返答に奉太郎がなぜ安心したと言ったのか、にわかには私には解りかねた。ネット上の意見では、入須が嘘を交えて奉太郎を唆したことについて認め、『女帝』の仮面に隠していた人間性を見せたことに奉太郎が安堵したため、という説が有力のようである。私と前後して読了した家人の意見は、入須が自らを“結果だけを重視する人間”だと認めたことで、奉太郎は自分の最終的な推理が妥当だという裏付けを得たから、というものだった。
 そういうことなのか、と思いつつもまだ違和感が残る。入須のあの返答は、「君は『英雄』ではない」と言ったものではないか。だとするならば、それを聞いて安心した奉太郎は、“自分がやはり凡人である”と聞かされて安堵した、ということになる。それはある種の虚勢ではなかったろうか。
 『省エネ』を旨としている彼であるから、『英雄』になどなりたくない、というスタンスは理解できる。が、本心からそう思っているか否かについては、やはり少なくとも本作の段階では、まだどちらとも言い切れないように思える。

 奉太郎の抱える、そういうある意味で深刻な思いを、ふっと楽にさせるのが、えるが最後に呟いた一言だろう。それは、今まで殺人を扱ったミステリだけを読んできた私の目から鱗を落とさせるのにも十分だった。作中では「愚者」のタロットカードを割り当てられた彼女の視点は、とても温かなものだったと言えるだろう。
 そんな「愚者」の視点で見たとき、はじめて姿を現す劇中劇の真のエンディング。「愚者のエンドロール」とは、そういう意味なのかもしれない。

 ここからは、細かいが気になった点を幾つか拾ってみたい。
 まず、p.116に出てくる、映画の舞台となった廃墟(元劇場)の「中村青」までしか読めない設計士の名前。これは恐らく、綾辻行人氏の「館」シリーズの中村青司だろう。特に両作に深い関連性はないようだし、単純なオマージュと思われる。

 2-F有志の事件に関する見解を聞いていく過程で、えるが酔っぱらってしまうシーンがある。豪農の娘はお酒も強いのでは、と思いながら読み進めたが、逆のパターンだったようである。楽しいお酒ではあるようなので、そこは救いだろう。
 本編前後には、「アバンタイトル」「エンドロール」として神高生(およびその卒業生)だけが使えるチャットルームの様子が描かれている。アニメではそのまま使われていたが、映像化するのにギリギリなタイミングだったかと思う。

氷菓 限定版 第6巻 [Blu-ray]

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 2018年現在、もちろんまだネット上に色々なチャットルームは存在しているが、本作が世に出た15年前に比べて使用頻度は激減しているだろう。今後、もし実写映画化などされる機会があるならば、どのように翻案されるだろうか。

 作者による「あとがき」にも、幾つか気になることがある。
 まず冒頭で触れられている「三十二の不思議な力」とは、本を印刷する際の単位となってくる「台」に関するものだろう。本書の全ページを256ページちょうど(32ページ×8台)で収めたいという出版サイドからの指令を、作者流のおかしみを込めて表したものだと思う。私の認識では16ページで1台という場合の方が多いと思うのだが、文庫判だと32ということも多いのかもしれない。
 オフィシャルな参考文献としてバークリーの『毒入りチョコレート事件』が挙げられているが、本作の英文タイトルからはアガサ・クリスティの『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』が連想される。後者に関しては「実は無関係」とされているが、いずれにせよ私は2冊とも未読である。本作との関連度に関わらず、手にとってもいいかもしれない。

毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)

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なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

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 また、本作の小道具として忘れてはならないのがシャーロック・ホームズシリーズであろう。特に以下の2冊は本書の“トリック”に関わっている。「冒険」は読んだが「事件簿」は未読なのでいずれ読みたいと思う。

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

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シャーロック・ホームズの事件簿 (新潮文庫)

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 最後に、これは次作の「あとがき」で種明かしされていることなので、本書についての感想で述べるのは少しルール違反な赴きもあるが、やはり付け加えておきたい。
 5章のタイトル「味でしょう」とは、「ajideshou」→「agidatiou」→「agitation」ということで、入須が奉太郎を「そそのかす」という意味で付けられたようである。こういう付け方もあるか、と編集者の立場からも興趣を感じた。

愚者のエンドロール (角川文庫)

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