何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

米澤穂信『遠まわりする雛』の感想


(2017年9月読了)

  『クドリャフカの順番』から引き続いて、古典部シリーズの4作目を読む。今回は短編集である。
 各編は奉太郎たちが1年生として過ごした春夏秋冬を舞台としており、時系列としては、これまでの3作の間に当たる時期の挿話だったり、『クドリャフカ』で描かれた文化祭の後の時期のエピソードだったりする。
 ちなみに、本書が描く時間的範囲は、シリーズのアニメーション版のそれとほぼ同じである。つまり、アニメの最終話は本書の表題作「遠まわりする雛」となる。その意味では、奉太郎達が出会い、1年を過ごす様を描いた長編3作と本書をもって、シリーズの一区切りという意識を持つファンも多いのではないだろうか。
 ともあれ、まずは各編の概要を述べる。

やるべきことなら手短に。「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」を生活信条とする折木奉太郎(おれき・ほうたろう)。彼が県立神山高校に入学して1か月が過ぎた。
 奉太郎が半ば強制的に入部することとなった古典部の部長にして同学年の千反田える(ちたんだ・――)の口癖は、「わたし、気になります」。自分の信念とは真逆な彼女に対し、奉太郎は少しばかりの苦手意識を持っている。
 そんな奉太郎に、中学以来の旧友で古典部員でもある福部里志(ふくべ・さとし)は、音楽室の怪談まがいの噂話を披露する。えるが、その真相解明をしようとやって来るが、それを遮って奉太郎が口にしたのは、神山高校に伝わる秘密倶楽部『女郎蜘蛛の会』の噂だった。
 えるは興味を惹かれ、3人はその勧誘メモを探すべく推理を重ねる。“部活の殿堂”神山高の多彩な部活の勧誘ポスターに一同圧倒されつつも、奉太郎の推理は的中し、首尾良く秘密倶楽部の勧誘メモは発見された。
 里志は奉太郎の“計略”を褒めるが、同時にモットーに反していたと指摘する。己もまた「不慣れなやつほど奇を衒う」ことをしたのだと奉太郎は自覚した。

大罪を犯す。6月のある日の5時間目の授業中、奉太郎は隣の1年A組に響く大きな物音を聞く。黒板を叩く物音と教師の怒声。そしてそれに割り込む、えるらしき女子生徒の声だった。
 放課後、里志を追いかけて古典部に入部した伊原摩耶花(いばら・まやか)が、部室で里志に怒りを爆発させたことから、えるは果たして怒ることがあるのか、が話題となる。それを発端に、えるは件の5時間目に遭遇した謎――数学教師の尾道は、なぜA組の授業進度を勘違いしたか――について、奉太郎に意見を求めた。
 尾道が自分の教科書にメモする内容から、奉太郎が真相を解き明かすと、えるは自分が怒ったことを恥じる。それは奉太郎の予想通りではあったが、それだけで彼女を理解した気になるのは傲慢だと自戒した。

正体見たり。8月。文集『氷菓』にまつわる事件解決の労をねぎらうため、えるは古典部部長として部の温泉合宿を企画、4人は摩耶花の親戚が営む財前村の民宿「青山荘」へとやって来た。
 宿の姉妹、善名梨絵(ぜんな・りえ)と嘉代(かよ)も交えての夕食を摂り、近所の露天風呂に入って約1名のぼせ、その1名を除いて怪談話に興じるなど、旅を満喫する一同。しかし翌朝になると様子が変わっていた。摩耶花は、梨絵が前夜語った怪談のような首吊りの幽霊を見たと言い、同室のえるもそれに同意したのだ。
 えるの好奇心に引き摺られ、奉太郎は幽霊事件を探る。ラジオ体操、前夜の雨、そして姉妹の関係などから導き出した奉太郎の答えは、えるには苦いものを残した。

心あたりのある者は。「10月31日、駅前の巧文堂で買い物をした心あたりのある者は、至急、職員室柴崎のところまで来なさい」。11月のはじめの日、部室に2人だけだった奉太郎とえるは、そんな校内放送を聞く。
 奉太郎の推論能力が本物であるか否かで議論になろうとしていた2人は、この校内放送の意味について推論を立てるというゲームを始める。用語の確認から始まった推論は、呼び出された生徒Xをめぐる犯罪の可能性に至り、ゲームは終了した。
 始めた趣旨すら失念したような2人だったが、翌朝、奉太郎は「瓢箪から駒」という金言がゲームの発端にあったと、強引に思い込もうとする。

あきましておめでとう。荒楠神社の境内の隅。おんぼろの納屋の中に、奉太郎とえるは居た。
 元日の夜、えるに誘われた奉太郎は、荒楠神社に初詣にやって来ていた。小紋に身を包んで現れたえるは奉太郎を伴い、父・鉄吾の名代として神職に挨拶する。巫女は同級生の十文字かほ(じゅうもんじ・――)だった。
 アルバイトでおみくじ売り場などを担当している摩耶花に会った後、えるは、かほの手伝いを申し出、それに奉太郎も付き合う。勘違いと不運が重なり、2人が納屋に閉じ込められてしまったのは、そうした経緯からだった。
 名代として来ている以上、えるは体面を気にせざるを得ず、大声を出して助けを呼ぶことはできない。元日の寒さの中、奉太郎は知恵を絞る。
 幾度かの失敗の末、里志の影響されやすい性格と、新春ドラマ「風雲急小谷城」に賭けた奉太郎の方策は成功する。男子2人は、やや風変わりな新年の挨拶を交わした。

手作りチョコレート事件。去年の雪辱を晴らそうと、摩耶花は里志に渡す手作りチョコレートに注力する。その里志の以前に比しての変化――勝利至上主義から面白味追求へ――を、対戦ゲームのプレイスタイルから奉太郎は感じ取っていた。
 2月14日、少し肩透かしな思いを味わい図書室で過ごす奉太郎に、えると里志が事件の報をもたらす。部室に置いてあった摩耶花のチョコレートが、何者かによって盗まれたのだという。
 校内を探す3人。居残っていた天文部から話を聞き、奉太郎はチョコの在処を特定しかける。が、現れた摩耶花は予想外に落ち着いていた。
 責任を感じるえるに約束した通り、奉太郎は犯人を特定し、チョコを取り返して里志に渡す。犯行の動機を訊ねた奉太郎は、その応えに、物事の見方は単一でないことを改めて思い知った。

遠まわりする雛4月。えるに頼まれた奉太郎は、水梨神社を訪れた。催しで自らが『生き雛』を務めて集落を巡るえるの、傘持ち役を仰せつかってのことである。
 しかし、通れるはずの長久橋で工事が始まっていることが分かり、準備の者たちは混乱する。代わりに提案されたルートが、えるの口利きで使えることになり、どうやら無事に『生き雛』の行列は始まった。入須冬美(いりす・ふゆみ)の内裏と、えるの雛。狂い咲きの桜の下を進む奉太郎の夢見心地は、見物に来た里志の呼び声で破られる。
 仕事を終えた奉太郎は、化粧を落としたえるに、雛が遠回りすることになったルート変更の犯人と、その動機を問われる。「そんなことのために!」と、えるは驚くが、奉太郎は内心で犯人への理解を示していた。
 どこへ行こうといずれはここに帰ってくる。えるはそう語り、自分の生まれた小天地を紹介したかったと言う。奉太郎は、言おうとすることが言えず、はぐらかすことしかできなかった、摩耶花に対する里志の気持ちを、今更に了解した。

 …前作では、古典部の面々が入れ替わり立ち替わり語り手を務めたが、今回は概ね奉太郎の視点で話は進んでいく。文化祭という特殊な状況を描く『クドリャフカ』の方が特別だったのだろう。
 これまでの長編が、どちらかというと事件にピントを合わせていたのに対し、これらの短編は人物に合わせているという感じを受けた。「あとがき」で作者は本書の主役は「時間」としているが、それは即ち、時間によって変容していく人物を描くということに他ならないだろう。
 とりわけ、奉太郎から見た千反田えるという視点が大切にされている気がする。えるという少女が、どういったことに喜怒哀楽し、どういう環境に生まれ育ち、生きていこうとしているのか。それを示した7編であると言っても、大間違いではなさそうである。
 その点から重要と思われるのは、「大罪を犯す」「正体見たり」「あきましておめでとう」「遠まわりする雛」の4編だろう。が、とりあえずは掲載順で各編について述べていくことにする。

 「やるべきことなら手短に」は、奉太郎たちが神山高校に入学して1か月ほど経った頃――第1作『氷菓』の「二」と「三」の間に当たる――の話である。まだ互いにどういう人物かを把握し切れていない奉太郎・里志とえるのやり取りが面白い。トリック(というか、とある仕掛けというべきか)については、里志の指摘は確かに頷けるものだったが、それだけ奉太郎にとって、えるは特異な存在だということを示しているのだとも思う。
 なお、秘密倶楽部として言及される「女郎蜘蛛の会」は、恐らくアシモフの「黒後家蜘蛛の会」を踏まえたネーミングだろう。奉太郎の読書の範疇だろうか。

 同じく『氷菓』の「三」から「五」あたりの頃を舞台とする1篇が、「大罪を犯す」である。摩耶花を加えた古典部は賑やかになり、その後の雰囲気が確立されたのが分かる。
 えるが何に怒るのかが探られつつ、数学教師の勘違いの原因が解き明かされていくのだが、そのタネはかなり分かりやすかった。
 話を進める小道具として、キリスト教の「七つの大罪」が出てくる。最後に奉太郎が述べたように、高校生活の浪費は「怠惰」の罪に違いない。しかし、その浪費自体がかけがえのないものであることを、私自身の高校時代を思い出しつつ改めて思った。

 3編目の「正体見たり」は、『氷菓』と『愚者のエンドロール』の間に入るだろうエピソード。これまで概ね学校内だけだった舞台を温泉地に移した、というだけで、温泉好きの私には魅力的な話である。
 温泉合宿の舞台となった財前村にはモデルが存在するのか、少し調べてみた。しかし、アニメ版のモデルとして平湯温泉郷が挙げられているのが分かっただけで、原作がどのあたりを念頭に置いていたかは分からなかった。特定のモデルは無いのかもしれない。
 余談だが、平湯温泉郷には一度、冬に行ったことがある。寒かったが、清々しい気持ちになれる良い温泉郷だった。
 初めての合宿に、奉太郎以外のメンバーは心が浮き立っていたと思われるが、描かれた「事件」は少しビターなものだった。アニメーションでは多少まろやかに翻案されていたようだが、この苦みが本シリーズの味だと私は思う。

 再び舞台を部室に戻した「心あたりのある者は」は、登場人物が奉太郎とえるだけの、しかも奇妙な校内放送についての推論が延々と続いていくエピソードである。
 このような、普通でない状況についての解釈と推論を積み上げていくタイプのミステリは1ジャンルとして確立しているらしい。私が思い出したのは、若竹七海氏の実体験に基づいた「五十円玉二十枚の謎」に、プロもアマも果敢に挑んだという話である。その成果の一部は本にも纏められている。
 巻末の「あとがき」によれば、作者はこの1編をハリィ・ケメルマンの『九マイルは遠すぎる』の入り口に設定したようである。未読だがよく見聞きするタイトルなので、遠大すぎる私の読書予定のどこかには入れておきたい。

競作五十円玉二十枚の謎 (創元推理文庫)

競作五十円玉二十枚の謎 (創元推理文庫)

 
九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

 

 「あきましておめでとう」の舞台は、奉太郎たちが初詣に訪れた荒楠神社である。『クドリャフカ』で十文字事件の発端を担った十文字かほが、この神社の巫女として再登場している。
 ただの初詣デートということではなく、えるは父の名代として年始の挨拶に来ている。そういう彼女の境遇についての描写は、後の「遠まわりする雛」に連なるものと言えるだろう。
 閉じ込められた2人が救われる切っ掛けとして、織田信長の妹・お市の方による小豆袋のエピソードが出てくるが、これは前述の「正体見たり」にもちらりと登場する。そちらでは奉太郎・共恵、あるいはゲストの善名梨絵・嘉代という姉弟・姉妹の関係性を描く引き合いとして出てくる形だが、この逸話に対する作者の強い関心、というか「どうにかこれを作品に絡められないか」という気持ちがあったように思える。
 それにしても、実際に真冬の納屋に閉じ込められたら、例え「ちょっといいな」と思う異性と一緒だとしても(だからこそ)大変である。作者の念頭にはジャック・フットレルの短篇「十三号独房の問題」があったようだが、2人一緒に閉じ込められる、というこのシチュエーションは本作に独自のものなのだろう。
 「十三号独房の問題」も有名な作品だが、未読である。そうとう古い版だった『世界推理短編傑作集1』が新版になり、同書に収められているので今なら読むことが容易だろう。

 バレンタインデー周辺の古典部を描いたのは「手作りチョコレート事件」である。中心にあるのは摩耶花と里志の関係だが、奉太郎とえるのちょっとしたやり取りも味わい深い。
 この話の初読時、私には少し分かりにくかった箇所がある。冒頭にある「許すまじくは許さない」(文庫版p.261)とは、どういうことか。なぜそれが、摩耶花がカカオ豆からチョコレートを作らねばならないことに繋がるのか。その辺りが私にはうまく飲み込めなかったのだ。
 調べたところ、この「許すまじくは許さない」の意味を問う問題が、大学入試で出題されたことがあるらしい(東海大学2013年)。その際の解答は「許せないことは許さない」だったようだ。
 この言葉と、その前後に展開される奉太郎の持論を繋げると、以下のような意味となるのだろう(私なりの言葉で要約している)。

 物事の見方は単一ではない。が、人はある程度の物事を「信じる」ことで日常生活を維持している。
 しかし、それは盲信を認めることとイコールではない。俺(奉太郎)はそうした一線(「許せないことは許さない」というような)を持ってはいないが、それを持つ人間がいることも認めるものである。

 奉太郎の言う「そうした一線」が直前の「許せないことは許さない」を指しているのか、いまいち自信がないのだが、こう解釈する限り、安易な「手作り」を盲信と捉え「許すまじくは許さない」一線を有する里志が、摩耶花のチョコを拒絶したことの擁護と取ることができる。
 この「許すまじくは許さない」はまた、里志が摩耶花の好意をはぐらかし続けた理由でもあるのだろう。その硬質な意識には、『氷菓』の頃に彼が「調べている」と言っていた、学生運動の時代の青年たちを連想する。そう思えばこの言葉は、奉太郎の「やらなくてもいいことなら」云々と同じように、里志という人間の信条なのかもしれない。
 付け加えるならば、『クドリャフカ』で顕わになった奉太郎に対する里志の屈託も、この短編の印象を単なる日常ミステリでは済まなくさせている。ここでの言動を読む限り、彼の変容もやはり道半ばであろう。今後どうなっていくのか、読める時を心待ちにしたい。

 最後を飾る「遠まわりする雛」は、とても綺麗で、少し寂寞としたものも感じる1篇である。
 生き雛の風習は趣きがあるし、そこに起こる小さな不正も、いっそ雅と言える。大わらわで準備を進める地元の人々の喧噪も、いい味だ。
 一方で、人々の穢れを引き受けて練り歩く雛の役割を名士の娘えるが引き受けている状況には、単純に若者が少ないためでもあるのだろうけれど、『氷菓』から形を変えて幾度も繰り返されている、“英雄と民衆”の構図を垣間見る思いがする。
 大学に進学するにせよ、いずれはこの小さな世界に戻ってくる。そう語っている最中の、えるの表情は描写されていないが、それは淋しい笑顔ではなかったか。

 「あとがき」でも言われているように、彼らの変化は緩やかなもので、その途上にあることが分かる。彼らが卒業するまで、まだ3分の2の月日がある。願わくば、彼らが更に変わっていくだろう残りの日々の相当量を作品として読めますように、というところだろうか。

遠まわりする雛 (角川文庫)

遠まわりする雛 (角川文庫)