何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

米澤穂信『クドリャフカの順番』の感想


(2017年9月読了)

  『氷菓』(当該記事)、『愚者のエンドロール』(当該記事)に続いて3作目も読了した。文庫版に添えられた英文タイトル「Welcome to KANYA FESTA!」が示す通り、「カンヤ祭」こと主人公たちの高校の文化祭を舞台とした作品である。
 私は文庫版を読んだのだが、当初から文庫本で刊行された前2作と違い(とはいえ、スニーカー文庫→角川文庫という二段階刊行ではあったが)、本作以降は単行本→文庫化という刊行過程を経るようになっている。ライトノベルのレーベルを離れ、移行は一般的な文芸作品としての扱いになった、ということと思う。

クドリャフカの順番―「十文字」事件

クドリャフカの順番―「十文字」事件

 

 このシリーズはその後も作品を重ねているが、もともと最初の『氷菓』から文化祭が遠景にあり、『愚者のエンドロール』での展開もその準備の一環だったことから、作者はこの3作目までで一連の作品と構想していたのではないだろうか。
 ともあれ、例によって概要を示す。

概要

 待望の神山高校文化祭を翌日にひかえた秋の夜。古典部の面々は眠れずに過ごしていた。
 不眠の原因は、過剰在庫である。文化祭に出品する文集『氷菓』が無事に印刷所から納品されたはよかったが、不幸な手違いで破格の部数を抱えることになってしまったのだ。

 翌朝。文集の編集を一手に引き受けた自分の責任が重いと考えながら、掛け持ちしている漫画研究会の展示に時間をとられて伊原摩耶花(いばら・まやか)は満足に動けない。彼女を除く古典部員3人は、それでもどうにか状況を打破するために行動を開始する。
 部長の千反田える(ちたんだ・――)は、僻地にある古典部部室(地学講義室)以外に新しい売り場の確保を目標とした営業活動を。福部里志(ふくべ・さとし)は知名度の低い古典部の名を校内に轟かせるため、各所のイベントで活躍することを念頭に置いた公報活動を。そして、「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」を生活信条とする折木奉太郎(おれき・ほうたろう)は、店番を。
 えるは、あちらこちらに興味を引かれながらも総務委員会、壁新聞部に掛け合い、里志はクイズ研主宰のクイズ大会で古典部と『氷菓』を猛アピールする。一方、奉太郎は店番しながら、姉からもらった書けない万年筆に端を発した「わらしべ長者プロトコル」に人知れず興じ、摩耶花は漫研内の派閥争いに巻き込まれ、あまり愉快でない時間を過ごしていた。
 そんな中、えるは友人の荒楠神社の娘・十文字かほ(じゅうもんじ・――)から、彼女が所属する占い研究会のブースから「ホイール・オブ・フォーチュン」のタロットカードが盗まれたことを知らされる。盗まれた現場には、「十文字」という署名とともに犯行を表明するグリーティングカードと、「文化祭が終わったら返します」という走り書きのメモ、文化祭のしおり「カンヤ祭の歩き方」が残されていたという。里志もまた、彼を勝手にライバル視してクイズ大会に参加したクラスメート・谷から、やはり犯行声明のカードを添えて、囲碁部の碁石が盗まれたと聞かされる。
 そのころ摩耶花は、漫研の先輩で対立派閥の中心人物でもある河内亜也子(こうち・あやこ)との論争に突入していた。「主観次第でどんな作品でも名作になりうる」。そう言い切って漫研の文集にケチをつける亜也子に、時間の淘汰を経ずに名作の片鱗をうかがわせる作品が存在するという立場の摩耶花は、自らが衝撃を受けた同人漫画『夕べには骸に』を持ち出すことで、反証を提示しようとする。
 かくして、『氷菓』の売れ行きは芳しくないまま、1日目の日は暮れていった。

 翌日。アカペラ部でも似たような盗難騒ぎがあった、という話を、里志は総務委員長・田名辺治朗(たなべ・じろう)から聞かされる。
 えるは、古典部が夏休み中にトラブルの解決役を担ったビデオ映画「万人の死角」を上映する2年F組に向かう。『氷菓』委託販売の交渉を“女帝”入須冬美(いりす・ふゆみ)に持ちかけると、冬美は交渉のイロハを伝授してくれた。
 そして昼。里志が、える、摩耶花を誘って結成した「チーム古典部」は、お料理研究会主催の料理勝負イベント「ワイルドファイア」に参加する。会場到着が遅れている摩耶花を大将に、先鋒の里志はそこそこに、二番手えるは大いに料理し、会場を沸かせる。会場に滑り込んだ摩耶花をアクシデントが襲い、何とかそれを打破するが、その背景にはまた1つの盗難事件があった。
 部室に集まった古典部員は、幾つもの盗難を総合して、その法則性を見抜き、事件の犯人探しは、部の知名度上昇――ひいては『氷菓』の売上げ増大――に繋がると考える。そのネタを持って、えるは再び壁新聞部に交渉に向かい、里志は店番から動こうとしない奉太郎に代わり、自分が探偵役を担おうと目星をつけた場所へと向かうが、不首尾に終わる。
 摩耶花は、居心地の悪い漫研に戻る。部長の湯浅尚子(ゆあさ・しょうこ)から、亜也子の過去を聞かされるが、要領を得ず、困惑するだけだった。
 再び部室に部員達が揃う。情報を交換する中、文化祭2日目の日も暮れようとしていた。

 その夜。えるは慣れない販売交渉に疲れ、摩耶花は自分が『夕べには骸に』と並ぶ傑作と考える同人漫画『ボディートーク』を再読し、自作の未熟ぶりに打ちのめされ、奉太郎は神山高校文化祭の公式サイトを閲覧する。そして里志は、高校に入り才能の片鱗を見せ始めた奉太郎に追いつかんと密かに誓い、独自に犯人を推理する。

 それぞれに眠れない夜を過ごした古典部員たちをよそに、文化祭は3日目を迎える。
 気合いを入れて張り込む里志。来襲する、奉太郎の古典部入部のきっかけとなった張本人。放送部の校内ラジオ放送をチャンスと見込み、行動を開始するえる。2冊の同人漫画の事情を知る摩耶花。
 そしてつながり始める、同人漫画とクリスティと「十文字」。店番をしながら巡らされていた奉太郎の思考は、やがて1つの結論に辿りつこうとしていた。
 文化祭最終日の夕暮れが迫る。「十文字」事件の結末はどこか。そして、まだだいぶ残っている『氷菓』の在庫は――。

 …英文タイトルが語りかける通り、読者として神山高校文化祭を楽しめた、というのが一番シンプルな感想である。
 ただ、奉太郎が語り手だったこれまでの2作とは異なり、古典部の4人が入れ替わり立ち替わり語り手となって物語が進行していくため、色々な味わい方ができる作品であるとも言える。細分化すれば色々な要素が引き出せる。特に興味をそそられたことを2点ばかり書いてみたい。

営業ドラマ

 まず第一に挙げたいのは、手違いで印刷し過ぎてしまった文集『氷菓』を、古典部がいかにして売るか、という営業ドラマとしての面白さだと思う。部長のえると、里志の2人が中心となって、文化祭の各所で、相談を持ちかけたり、交渉したり、あるいはイベントに参加して宣伝したりする様子は痛快である。総務委員会所属の里志が文化祭のしおりの編集に携わっており、そこで一計を案じたというところも、編集者として面白く思った。
 こうした痛快ぶりには、何となく、大昔に読んだ那須正幹『うわさのズッコケ株式会社』を思い出した。あの作品は小学生の3人組が主人公だったが、やはり在庫過剰に苦慮してどうするか、という展開だったかと思う。

うわさのズッコケ株式会社 (ポプラ社文庫)

うわさのズッコケ株式会社 (ポプラ社文庫)

 

 店番役に収まった奉太郎は、そういう営業は表だって行わないものの、彼が語り手となった際には、その末尾に時折「【残り○○部】」との記述が入り、興趣を盛り上げてくれる。
 その昔、各地の学会に自社の本を持って行き手売りする、ということを幾度かやったことがあるのだが、その日の売れる売れないは、その日の自分の手の及ぶことではない。売れる時は売れるし、売れないときは売れない。なので、無心で売り子を続けるしかないのだが、店番をする奉太郎の気持ちは、その時の私の気持ちにぴったり重なるのではないか、と思った。

『英雄』とディスコミュニケーション

 もう一つ挙げたいのは、第1作『氷菓』からの通奏低音である『英雄』についてである。
 第1作『氷菓』においては『優しい英雄』とそれを仕立て上げた『無情なる民衆』という構図の物凄さが描かれ、第2作『愚者のエンドロール』では視点を逆転させたかのような“自分は選ばれし『英雄』であるか否か”という問いが描かれていた。
 前作でのそのような問いは、本作でもまた古典部のメンバー――とりわけ里志と摩耶花――や一部の登場人物に、それぞれの形で影を落としている。その問いに対し、ある者は果敢に挑み、ある者はまだその手前で立ち尽くしているように私には読めた。
 そして、彼らの苦闘をさらに難儀なものにしているのが、ディスコミュニケーション――意思疎通の不全ではないだろうか。摩耶花が傑作と認める2冊の同人漫画の一方『ボディートーク』は、「コミュニケーションの齟齬」に的を絞ったストーリーだという(p.255)。これはそのまま、本作の(あるいは、ここまでの3作を通して)重要な要素ではないかと思う。コミュニケーションが無いわけではなく、有るのだが、そこで一方の本心が他方に伝達されていない。そんな関係は、本作のそこかしこで見られた。
 確かに、本心でのコミュニケーションには勇気が要る。しかし、そこをもう少し踏み込んでみたら、とも思った。そうすると、このシリーズの味わいが変わってしまうか、とも思うのだが。

その他の細部について

 感想の本題としては以上なのだが、細部で気になった点や、作中で言及されている本について、幾つか書き留めたいと思う。
 まず、里志の「鼠をウエノアネサマと言う」との言説(p.34)について。少し調べたところ「鼠」を忌み言葉として避ける場合、言い換える言葉として「ウエノアネサマ」があるようである。鼠を天井裏を活発に歩き回る少女に見立てた、というところだろうか。

 奉太郎が暇な店番に満足しているとき、窓からアカペラ部の「ライオンは寝ている」が聞こえてくる場面がある(p.68)。その際の歌い声が「まんまんまうぇー」と描写されているが、実際のところ、これはどういう歌詞なのだろうか。
 高校時代に合唱部に片足を突っ込んでいたのだが、所詮は片足を突っ込んでいたに過ぎないので、そもそも私はこの歌を知らない。調べてみたところ、「a-weema-weh」という歌詞であることが分かった。確かに平仮名で書くと、「まんまんまうぇー」になるのかもしれない。少し検索すれば動画も出てくるので、興味のある方は聴かれるとよい。

 えるの友人で神社の娘でもある十文字かほは、恐らく今回が初登場だろう。彼女を形容した里志の言葉「図書館の新しいヌシ」(p.82)に引っかかった。彼女が「新しいヌシ」ならば、「古いヌシ」も居るのだろうか。学年的に2年生以上であることは疑いないし、今後の作品の布石と見て楽しみにしておきたい。

 お料理部主宰の料理勝負イベント「ワイルドファイア」で、えるが作った「ぎせ豆腐」(p.167)とはどういうものなのか。漢字で書くと「擬製豆腐」のようで、由緒ある精進料理のようだ。作品の舞台と目される岐阜周辺ではポピュラーな料理なのだろうか。『聞き書 岐阜の食事』という本には記述があるという。

聞き書 岐阜の食事 (日本の食生活全集)

聞き書 岐阜の食事 (日本の食生活全集)

 

 一説には「犠牲豆腐」とも書くといい、だとすれば本シリーズのテーマにも沿っている気がしないでもない。さすがに、こじ付け感もあるが、さらにこじ付ければ、太郎と恵という姉弟のネーミングにも「ささげもの」というニュアンスを感じ取れるが、どうか。

 今回は、漫研の展示に出る摩耶花の扮装の元ネタとして、幾つか往年の名作漫画について言及がある(そのものずばりの作品名は出てこない)が、活字の本はそれほどの数でもなかった。
 その中で存在感を示しているのが、アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』であろう。本作以前から、いつか読まねばと思っている本でもあるので、そろそろ手に取りたいところである。

ABC殺人事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ABC殺人事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 


 最後に、更に蛇足を足す形にはなるが、もう1つ、書いておきたい。
 本作を含むシリーズ前半3作を読んでいた2017年9月、ちょうど私が卒業した高校も文化祭だったので、当時のクラスメイトを誘って母校を訪れた。
 何やらの重点高に指定された母校は、自治体から格別の予算が付けられているようで、物わかりがよくて優秀な生徒で溢れていた。が、以前は履修できた第二外国語などの“無用の長物”は廃止ないし縮小され、神山高校風に表現すれば『行事の殿堂』と言えた行事群も抑え目になっていた。
 国際社会で活躍し、科学技術に明るい人材を育成する、というスローガンは、もちろん素晴らしい。しかし、何だか生徒の自主性という点では後退しているような、負け惜しみめいた感想が湧いたのも事実である。
 “不機嫌な大人の懐古趣味”とか“老害”と言われれば否定はできない。けれども、描かれた神山高校の自由さを見ていると、やはり母校からは取り落とされたものがある気がしてならない。 

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)