何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

荻原浩『花のさくら通り』の感想

 へっぽこ気味な零細企業・ユニバーサル広告社の活躍を描いたシリーズの3作目である。
 上製本の発刊は2012年だが、昨年に文庫化され、年明けにkindle化されたこともあり手に取りやすくなった。先日の記事で前作『なかよし小鳩組』に触れた勢いに乗って読む。

 以下、まずはあらすじを記そう。

 資金繰りが悪化し、ついに今までの事務所を引き払って郊外に移転してきたユニバーサル広告社。想像以上にこぢんまりしていたJR桜ヶ森駅…から更に隔たった、さくら通り商店街の和菓子屋・岡森本舗の2階が新たな事務所となるが、もう会えない娘からの葉書が楽しみで仕方ないバツイチのコピーライター・杉山、バイトの猪熊は不安と不満が入り混じるし、社長の石井にしても「こんなとこ」呼ばわりする始末。ただ1人、アートディレクターの村崎は「なかなかパンク」だと気に入った様子である。
 商店街の人々は広告社の面々をよそ者扱いするが、こちらはこちらで問題を抱えていた。行覚寺の門前町として賑わったさくら通りも今は昔。商店街はシャッター通り寸前で、第一さくら通りと言いながらずいぶん昔に桜並木は伐採されてしまった。
 それでも年齢と創業年数がものを言う商店会は上層部の睨みが厳しく、事態を好転することはできずにいる。いちおう商店街に区分される、桜ヶ坂の若者向けショップの店主たちとの反目もあるし、駅前のスーパー「デイリーキング」との価格競争など課題は山積みである。サラリーマン経験のある岡森店舗の跡取り、守(まもる)は危機感を募らせるが、現状は簡単には変わりそうもない。
 一方、行覚寺の跡取り息子である光照(みつてる)と、桜ヶ坂の教会の娘である初音(はつね)はインディーズのパンクバンド“ヘルキャット”のライブで知り合い、交際を始める。しかし光照は思い悩む。寺の息子と教会の娘がつきあってよいものか? そして、これから最低3年間の修業に入る自分を、彼女は待っていてくれるのだろうか? 家業のことを隠しつつ、いつかは告げねばならないと思いつつ、光照は初音との時間を過ごす。
 事務所の上に住み込むことになった杉山は、守からポスター制作を依頼された毎年6月の恒例行事“さくら祭り”について、せっかくだからと大規模な改革案をプレゼンするが、あえなく空振りする。しかし、界隈での連続放火犯さがしに参加したのを切っ掛けに、守、光照、ラーメン一番、蕎麦の藪八、小島酒店、喫茶ドルフィンといった商店会の一部と信頼関係を築き、さくら通りと桜ヶ坂の間も徐々に打ち解けたものになっていく。
 杉山の提案や「悪知恵」もあり、商店会の面々は“さくら祭り”を盛り上げ、「デイリーキング」を出し抜き、高齢化が進む桜ヶ丘ニュータウンで青空市を開くなどするが、なかなか大成果を挙げるには至らない。
 そんな若手の動きが、商店会長である煎餅屋「丸磯」の磯村たち上層部には面白くない。ことあるごとに茶々を入れ、自分たちの発言力を維持しようとする磯村たちに対し、守はある決心を固め、杉山は一計を案じる。制作が持ち上がりながらも懸案となっていた、さくら通りのCM制作。大金を出資した商店会の影のヘッド、すみれ美容室の寿美代先生の忘れられない男(ひと)チェリー・ルーへの想いを届かせるために、そしてもちろん商店街の命運を賭けて、杉山のプレゼンは幕を開ける。

  シリーズ最長の分量(文庫本で550ページほど)は伊達ではなく、いつものユニバーサル広告社の面々、広告社が間借りすることになった和菓子屋の若旦那・守の視点を借りての商店街の面々、そして寺と教会というお家事情に悩む(と言っても悩むのは光照の方だけだが)光照と初音のそれぞれの物語をたっぷりと読むことができる。商店街の面々や光照や初音といった、それぞれの人物造形はステレオタイプといえばそうなのかもしれないが、丁寧にして軽妙な語り口が心地よくてあまり気にならない。
 ただ、光照・初音のエピソードはそこまで必要だっただろうか、と思わないでもない。ラストのCMに若い2人の物語を盛り込むために盛り込まれたのだと思うが、それによって相対的に杉山や守のエピソードが薄まってしまったように感じた。似ているようで似ていない境遇の2人を、もっとつぶさに読んでみたかった。前作と同様、さくら通りがその後どうなったのか、(劇的な変化があった、とするのはもちろん嘘くさくなってしまうけれども)についてももう少し描いて欲しかった。

 あまり好意的な感想を抱いていないような書きぶりだが、上に挙げた点はあくまで重箱の隅をつつく類のものである。やはり単純にユニバーサル広告社の面々と再会できたというだけでも私にとっては読んだかいがあった。
 特に、これまでは個性的な脇役に徹していた感のあったパンクなアートディレクター、村崎の魅力が前面に出ていて良い。禅問答の公案にように人生に惑う光照を「信じるのさ」の一言で感心させたり、鼻持ちならない商店会の古参が引用した新戸部稲造の『武士道』の誤訳を看破したりと、なかなかに痛快である。いま手元に無いのだが、彼が指摘した部分が岩波文庫などではどうなっているか確認したい。

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

 

 そして、その連載中に2011年3月11日を経験しているという事情が、この小説を特異なものにしていると思う(前作から14年という時間を置いて書かれた作品で、基本的には作中時間は前作から数か月後のようであるが、この震災とその後の社会についての事情だけは現実と同期している)。このシリーズは基本的にウェルメイドな(ここでは全体の構成や人物造形が巧みに組まれ、大団円を迎える、くらいの意味としよう)物語という範疇の作品ではあるのだが、恐らくは東日本大震災とその後の社会の動きから感じ取っただろう作者の苛立ちというか不安というか、そんな感情がほの見える気がする。
 シャッター通り寸前の商店街の復活劇という大筋は、きっと連載前から決まっていたのだろうが、そこに商店会の上層部(そこから繋がる市会議員まで)による“硬直化した組織との対決”が盛り込まれたのは、そんな事情からなのだろうと感じた。もしかしたら、この要素が無ければ(あるいは全体の割合としてもっと少なければ)、前述の光照・初音のエピソードがさらに活かされ、杉山や守とも呼応した、また別の展開が見られたのかもしれない。
 ifの話はともかく、例えば以下などは、杉山の独白という形を借りた作者の言葉であろう。杉山と同じように元コピーライターとして働き、組織の中でどうにもならなさを感じ、震災後の世界でもその感覚を深めた、作者の偽りのない心境ではなかったろうか。

「きれいな嘘には、もう飽き飽きだ。/善人ぶるつもりはないが、もう少しい人の役に立つ仕事がしたかった。自分たちの力で何かが変わる。そんな仕事がしてみたかった。」

 しかし、組織というもののマイナス面を描きながらも、だからといって作者はそこからの脱却を描こうとはしない。そこから再生する力を振るい得るのもまた、人々のチームワーク=組織だとするところが、良くも悪くもどうにも“大人”なのである。
 結果、物理的な結末としては、それぞれが協力してのイベント開催にCM制作というこれまでのシリーズと変わるところがない。しかし、杉山や守が他にどんな打開策を取り得たのか、を考えると、納得せざるを得ない。既存の組織が悪いとして、それではどうすればよいのか、ここで示されている問いはそのまま、現実が抱える問いではないかと思う。

 そういえば、バツイチで孤独だった杉山に、少しばかり春の兆しが訪れたような描写もある。もし次作があるならば、いっそ一気に数年後を舞台に、それぞれ少しずつ変化した彼らを読みたい気もする。そこに、上の問いへの新しい答えもあるのではないか、と特に根拠もなく思ったりもする。