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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

長野まゆみ『夏至南風』の感想


(2003年8月読了)
 長野まゆみの小説は3冊目である。
 恐らくはアジアのどこかの街、海藍地(ハイランデイ)。夏至南風が吹く、夏の直前の腐乱の季節。
 この街の「海岸ホテル」の息子、鈷藍(クーラン)は聞くことも話すことも辞めてしまった少年である。そんな彼と、美少年だがいかがわしい印象のある碧夏(ビーシア)を中心にしてめぐるのは、性と暴力、生と死の出来事ども。街に出没する黒い服の男、土に埋められ、あるいは水死で、あるいは凍り付いた、少年の死体たち。
 野蛮で高貴な碧夏が、その夏たどり着いてしまった酸鼻極める結末に、鈷藍は満足し、腐乱した彼の身体を抱擁するのだった。

  ミステリ小説のような要約になってしまったが、これはミステリではない。
 それにしても、これまで私の読んだ長野作品とはやや違う趣きである。それは、夏至南風(カーチーベイ)という沖縄言葉を用いたタイトルや、華南(中国南部)あたりをイメージした街や人物のネーミングのためというよりも、今までの作品には出てこなかった性と暴力がこの作品では前面に出ていることに起因している。
 鈷藍も碧夏も、鈷藍の弟の緑(ルウ)も叔母の瑛石(インシー)も、その他登場する人物は例外なく性的に放縦である。しかも同性間の関係はもとより、肉親や動物といった関係であっても特に何のためらいもなく性的な関係を結ぶ。時にサディスティックな要素を伴って、である。
 それほど露骨な描写があるわけではないが、ことに少年同士の関係は再三描かれているため、作品全体のモチーフが“腐敗”であることと掛け合わせて、本作は二重に“腐って”いると言えなくもないだろう。こうした要素を本作に組み込んだ著者の胸中は定かではないが、やはり『少年アリス』(過去記事)などのようなメルヘンチックな作品を読んできてこれを読むといささか驚く。 

 とはいえ、「こういう感じか」とスタンスが定まれば、むしろ江戸川乱歩稲垣足穂のような世界観の作品として楽しむことはできた。執拗に繰り返される腐敗のイメージは、真夏の凪いだ空気の中で読むと体感度は殊に高い。
 作中に出てくる港街の岷浮(ミンフー)の一角、戯島界(ヘイドウカイ)の、雑多で影の多い、自己増殖するかのような様子は、香港の九龍城のイメージも入っていると思う。かの地で読めばその腐敗の味わいもひとしおだったろう(残念ながら九龍城は既に存在しないため、その機会は永遠に失われた)。

 きわめて毒気の強い作品でありながらも、不思議と読後感は悪くなかった。それは腐敗という作用が、ある意味では浄化のイメージにも繋がっているからなのかと思う。

夏至南風 (河出文庫)

夏至南風 (河出文庫)

 
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