何か読めば、何がしか生まれる

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フランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』の感想


(2004年3月読了)

  確か、18歳の女性によるデビュー作という点で、綿矢りさ達と重なるので読み始めたように記憶している。ちなみに本作も一大センセーショナルを巻き起こした作品で、作品自体の映画化もされている(上のDVD)し、作者サガンについても映画が製作されて(下のDVD)いる。 

悲しみよこんにちは [DVD]

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サガン-悲しみよ こんにちは- [DVD]

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 それはそうと、以下、まずはあらすじである。

あらすじ

 もうすぐ18歳になる少女セシル。早くに母を亡くした彼女は、男やもめの父レイモンと共に、パリを離れて南仏の海辺でバカンスを過ごしている。40歳という年齢ながらプレイボーイの父は、幾多の女性遍歴を有しており、いまもまた、20代の女優エルザを愛人として伴って滞在しているのだった。セシルは隣の別荘に滞在している大学生のシリルと知り合い、ほのかな恋心を抱く。

 あるとき父は、亡き妻の友人アンヌをも呼び寄せる。美しくも超然としており、理知的で聡明なアンヌをセシルは慕っているが、一方では煙たがってもいる。華やかで享楽的な暮らしを愛するエルザとアンヌは、さらに反りが合わなかった。
 その聡明さに惹かれ、レイモンはアンヌとの再婚を決意するが、それは当然エルザを打ちのめし、また、アンヌの規範的な生活方針に父娘の享楽的な日々が支配されることを意味していた。アンヌは近い将来の母親として、セシルの勉強が進まない事、シリルとの関係について注意を与える。

 アンヌへの尊敬と反感という相反する感情を抱きながら、それでもセシルはアンヌを排除すべく画策する。父に捨てられたエルザ、アンヌにセシルとの交際を禁じられたシリルの2名を言葉巧みに動かし、父のエルザへの執着を掻き立てようという計画は、幸か不幸か奏功し、父は過ちを犯す。
 それは取り返しのつかない結末を迎え、セシルはアンヌへの思慕を再び感じ、シリルやエルザへの興味を無くす。パリに戻り、少しずつアンヌのことを忘れ、再び享楽に耽り始める父娘だったが、眠りに落ちる間際、アンヌの名と共にやってくる辛い感情を、セシルは受け入れることしかできなかった。

感想

 初読時は“アンヌの有する完璧さに対する、若さゆえの反逆”というように読んだのだが、駆け足で再読してみるとかなり印象が違った。それは初読時の訳が新潮文庫の旧版に当たる朝吹登水子で、いま手元にあるのが新潮の新版である河野万里子の訳という差異だけでは説明できないだろう。

 それでは今の印象とはどんなものか、というと、一言で表すのは難しいのだが“本心と嘘について”という感じになりそうである。
 モーリヤックの評価によって、「魅力的な小悪魔」(「小悪魔」という言葉に“コケティッシュな魅力”という意味が付加されたのは、もしかして本作が史上初かもしれない)という形容詞が与えられたこの小説だが、実際に中身を読んでみると、それほどセシルは「小悪魔」ではない。口うるさいアンヌに対し、ある意味で残忍な計画を立てて、父の元愛人や自分の恋する相手を巻き込んでいく様は確かに悪女と言えそうだが、いざ実行するとなった時、彼女の中には今更ながらアンヌへの尊敬の念が湧き起こってくるのである。しかもその尊敬は、アンヌへの憎悪と同時並行的に持続する。相反する感情を同時に胸に抱えて、しかも破綻を感じないという心理状態の描かれ方が巧みなのである。
 現実でも、“その時は本心から言ったはずなのに、後になってみると嘘だった(嘘になってしまった)”というケースや、そういう言動をする人は、確かに存在するようだ(私にも多少覚えがある)。当事者の心の中で何が起こっているのか説明するのは難しいが、セシルのアンヌへのごちゃまぜな感情は、ヒントになるかもしれない。

 それと、“本心と嘘”というのなら、セシルとは若干意味合いが違うが、実はアンヌもそうではないだろうかと思う。厳格なモラリストで、そのためにセシルやレイモンの自堕落な生活ぶりに釘を刺す彼女だが、セシルが言うほど誠実ではないように感じた。
 というよりも、その正論であること、反論を許さないこと自体によってセシルを追い込んでいく様の背後には、自分の穴をできるだけ埋めることで自分の欲求を通そうとする態度が透けて見えるような気がしたのである。確かニーチェが「誠実さの問題」というようなことを言っていたと思うのだが、それと関連するのかもしれない。

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

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