夏目漱石『坑夫』の感想
漱石の小説の中でも、あまり話題になることのない作品である。
書かれた時期で言えば、『虞美人草』(当該記事)と『三四郎』(当該記事)の間。島崎藤村が書いていた『春』が新聞連載に間に合わず、“つなぎ”として漱石が書いた、という経緯があるようだ。
時間的制約が強かったこともあって、漱石の作品としては珍しく、とある青年の体験をほぼそのまま作品にしたという実録的な面がある。以下、軽くあらすじ。
あらすじ
東京の地位ある者の家に生まれ育ったが、2人の女性(澄江、艶子)をめぐる葛藤から、自滅しようと出奔した19歳の「自分」。北へ北へと松林沿いを歩いていると、どてらを来た胡散臭い男、長蔵に声をかけられ、鉱山で坑夫として働かないかと誘われる。
捨て鉢な「自分」はこれを承諾すると、長蔵に連れられ鉱山へと向かう。途中で長蔵の勧誘した茨城出の赤毛布や不愛想な小僧も加わり、彼ら4人は食事も眠る処も侘しく山道を行く。
ようやく鉱山に到着した「自分」は飯場頭の原のもとに配属されるが、原は坊ちゃん育ちの「自分」には無理ではないかと帰ることを進める。
「自分」は食い下がり、どうにか飯場に入り込むが、荒くれの坑夫たちに嘲弄され、壁土のような南京米に閉口し、垢じみた布団に湧いた南京虫に刺されて夜も眠れない。また、重病で寝ている金さんと、ジャンボーという鉱山の葬式を囃す坑夫たちを見て「自分」は複雑な感情を抱く。
翌日、案内の初に先導され、「自分」はシキ(鉱山)の中を見て回る。暗闇の中で「自分」は疲労し、出てきた東京でのことを思う。
帰り道に迷ううち出会った、坑夫には珍しい学校出の安は「自分」に理解を示し、自分のように堕落しないうちに東京に帰るよう進言する。坑夫に嫌気がさしてきていた「自分」は、自分で金は工面して帰ろうと決心、ひとまず坑夫になるための健康診断を受けるが、気管支炎のために坑夫にはなれないことが分かる。
それでも「自分」は飯場長に談判し、飯場の帳附の職を得る。帳附になった途端、坑夫たちの態度は改まり、お世辞を言ってくるようにもなった。結局「自分」は帳附を5か月勤め、帰京した。
感想
実際の話を大きな脚色も無しに小説化しただけあって、小説的な企まれた面白さには乏しい。しかし、これは言ってみれば明治時代の知識人階級による潜入ルポみたいなもので、その点ではとても面白く感じた。
現代で言えば、大学生がドヤ街に行って実際に働いてみたりする感じだろうか。逆に言えば以下の1冊は、現代版『坑夫』と言えるのかもしれない。
だから山谷はやめられねぇ―「僕」が日雇い労働者だった180日
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そういうルポ的小説ではあるものの、やはり漱石流の内省的な部分もあって、不思議なバランスを感じる。
その本作の内省的な部分の基調となっているのが無性格論という考え方である。要するに“人の心が移り変わるのは当然”ということなのだが、これが以下のような感じで何度も書かれている。
自分はこの小僧の安受合を見て、少からず驚くと共に、天下には自分のように右へでも左へでも誘われしだい、好い加減に、ふわつきながら、流れて行くものがだいぶんあるんだと云う事に気がついた。
多分、これは前作の『虞美人草』の人物造形があまりに典型的で固定的だったからじゃないかと思う。
また、以下のようなメタ視点も散見される。
もっと大きく云えばこの一篇の「坑夫」そのものがやはりそうである。纏まりのつかない事実を事実のままに記しるすだけである。小説のように拵えたものじゃないから、小説のように面白くはない。その代り小説よりも神秘的である。
いわばピンチヒッターで連載していた小説なので、思わず筆が滑って舞台袖から作者が顔を出してしまったような感じである。太宰治なども割とこういうことをしていたと思うが、ライブ感があって私は割と好きな書き方だ。
以下、とりとめもなく考えたことを書こう。
作中に南京米というのが出てきて、とっても不味いもののように書いてある。これは一体なんだろうかと調べてみたところ、タイ米などの細長いインディカ米を指しているらしい。
1993年あたりに米の不作だかでタイ米を緊急輸入したのを憶えているが、当時もテレビなどでは「美味しくない」と盛んに言っていたように思う。
今、近所のアジア料理屋に行くと細長い米でビリヤニを作ってくれるが、私はこれがとても美味しいと思う。明治時代も1993年も、日本式に炊いて美味しくないと言っていたのかなぁ、と訝しむ。
Googleで「坑夫」と入れて検索しようとすると「村上春樹」とサジェストされるので調べてみたら、『海辺のカフカ』の中でこの小説について言及している箇所があるのだという。
夏目漱石と村上春樹というのは私にとって意外な組み合わせだった。『カフカ』は未読なのだが、そのうち読む折には『坑夫』も手元に置きつつ読みたい。
ところで、今の日本に稼働中の鉱山というのは存在するのだろうか。
浅田次郎原作の映画『鉄道員』では、幼子と2人、北海道の炭坑まで働きに来て閉山の憂き目にあった親父役を志村けんが熱演していたが、そういう風に、昭和の一時期で鉱山というものは軒並み閉山し、今でも現役というところは無いのではないか。
と思っていたのだが、鹿児島の菱刈鉱山、埼玉の秩父鉱山などは、まだ現役のようだ(深く調べれば、まだあるかもしれない)。
この小説の中では「ここは人間の屑が抛り込まれる所だ」とまで言われている(しかも当の坑夫に)鉱山だが、それも明治の知識人から見た一方的な説に過ぎないだろうと思う。現在の鉱山で働く人々はどのような仕事をして暮らしているのか、少し興味が湧いた。