何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』の感想


(2003年11月読了)

 ある程度まとめて漱石を読んだので、以降は残りを散発的に読みつつ、他の読書も織り交ぜていこうと思う。そんなわけで2冊目の島田雅彦は大学生時代のデビュー作である表題作と、短編を1本収めた1冊。以下、あらすじ。

あらすじ

 「優しいサヨクのための嬉遊曲」。大学生の千鳥姫彦は、綿密な計画を立て、オーケストラでヴァイオリンを弾く少女みどりに接近する。巧くことを運び、バージニアであるみどりと親密な関係になりたいのである。

 そんな千鳥は自身を「革命家のせこいやつ」という意味で“変化屋”と呼び、大学で左翼的な(ガチガチなものではなく、“「優しさ」と「知識」が必要”とするユルユルな)サークルに所属している。サークルの代表である外池や、自称“社会主義道化団”の無理(人名である)らとともに、反体制運動のことを調べて機関誌『カスチョール』を作ったり、ソ連の活動家サハロフの誕生日集会の運営に携わっているのだ。
 しかし、サークルスペースで左翼界の話題を応酬し、誕生日集会はまずまずの結果に終わったものの、サークルの雰囲気はいまいち盛り上がらない。みどりとの逢瀬も、もう一つ決め手に欠けるのだった。

 悪ノリの延長で男娼として客を取った無理が、その金でサークル活動を広報するバッジを作ろうと提案したことで、サークル内での無理の発言力は高まっていく。その一方で、千鳥は国家よりもみどりの父に踊らされた方がまだマシと判断し、サークルを脱退する。
 やがて卒業した外池は、反体制活動を更に進めるために私費留学し、サークルは男娼として資金源を得た無理たち社会主義道化団が牛耳るようになる。千鳥はみどりの聖母のような慈愛に浸り幸福を感じていた。

 「カプセルの中の桃太郎」。反抗期もなく育ち、強靭なペニスに憧れを持つ内向的な大学生クルシマは、社交的な幼馴染の鼓持から「おまえと似てるとこがある」とイノナカを紹介される。
 意気投合したクルシマとイノナカは、“盗まれた反抗期”を今から実施するため、国家への反抗を目論む。

 クルシマはバイクの免許を取り、イノナカはクラシックからロックに転向し、暴走族やロッカーたちを巻き込んで国家への反抗デモをしようとするが、巧くいかない。
 ある夜、バイクで走っていたクルシマは暴走族に襲撃されて流血する。見舞いに訪れたイノナカは「恋をすれば」と言うが、それを受け入れつつもクルシマは反抗することは諦めないと語った。

感想

 クラシックには興味はあっても、知識はあまりない。なので「嬉遊曲」というものが何なのか分からず、まず調べてしまった。ちょうど作中で出てくるモーツァルトの嬉遊曲17番がYouTubeにあったので、これを流しながら読まれるとよいかと思う。


W. A. Mozart - KV 334 (320b) - Divertimento in D ...

 2作入っている本だが、いずれも作者の言わんとしているところは同じようなものだと思う。つまり国家の大事に対する誠実さと、異性(エロス)への興味は両立するか、ということである。もっとも「優しいサヨク…」は左翼的な運動、「カプセルの中の…」は単純に反国家権力という違いはあると思うけど。

 1983年初出ということで、ソ連崩壊(1991年)を隔てた現在から読めば、さすがに「昔だな」という感じは否めない。ただ、80年代に入って学生運動はどうなっていたのか、という疑問には1つの資料になるとも言えるかもしれない。
 例えば以下の会話なんかはいかにも80年代的な応酬に思えて、面白かった。

「畜生、ハラショー」
「ワッショイ、ボリショイ」
「安保反対、あんた変態」
「ふざけないでください。……」(ハードカバー版p.33)

 島田雅彦といえば文学とポルノの間を邁進している作家という認識だったが、やはり当初からそういう作風だった。この2作はエロティックというのとは違うが、「オナニスト」(同p.124)など後の作品にも登場する造語も既に出てきており、全体的にピンク色なエッセンスが織り交ぜられているイメージである。

 こうした要素が示されつつ、童貞(恐らく)青年のやり場のない鬱屈が描かれていくのを読んでいると、明るく軽妙でありながらも微かに哀しみが滲むような、お道化ものの印象を受ける。確かにモーツァルト嬉遊曲17番の旋律と通じるものがあるようだ。

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

 

 

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