何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

対馬美千子『ハンナ・アーレント 世界との和解のこころみ』の感想


(2017年8月読了)

 20世紀の女性思想家ハンナ・アーレントの名前は、学生の頃に知った。しかし知ってはいたものの、その著書は読んだことがなかったし、その思想を解説した本も未読だった。本書の「あとがき」にもあるが、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督による映画『ハンナ・アーレント』も、幾らか興味を覚えたものの、結局は観ずにいた。

 2016年、何かの展示企画で本書を見かけ、副題にある「世界との和解」という言葉に興味を惹かれ、読み始めた。
 著者である対馬美千子氏とはお会いしたことがある。しかし、お互い主役でもない集まりで、少し言葉を交わしただけなので面識があるとは云い難い。恐らく氏も憶えてはおられないだろう。
 伝記のように思える側面もあるし、著書の記述を紹介して検討する解説の側面も併せ持った1冊である。まずは読みながらつけたノートを載せようと思うが、予想外に長いものとなってしまったので、感想も含めて目次を作成しておこう。

読書ノート

序 世界との和解のこころみ

 現代の「生きづらさ」、「根無し草」な感じ、「難民化」という問題について、ハンナ・アーレントの「世界と和解する思考」を検討することは、解決の手掛かりとなる。「根をおろすこと」「世界の中で安らう」「和解という意味での理解」と表現されるその考えは、アーレント自身も経験した全体主義的な支配への対抗という意味合いも帯びる。
 アーレントの思想における「和解」とは3つの側面を持つ。即ち、共通世界との和解、我々が生きる現実との和解、個人の人生で起こったこととの和解である。
 共通世界との和解とは、個人の生を超えて存続する世界を共通のものとして理解することを指す。その思考は、むしろ世界からの疎外――「無世界性」の経験――から生じてくるとも言える。
 現実との和解とは、人間の行為によって生じた出来事を「重荷」としてでも引き受け理解することを指す。アーレントの念頭には、和解が不可能な「根源悪」――アウシュヴィッツ強制収容所で起こったことなど――を生み出した全体主義的な考えが現れてきた世界との和解があった。
 個人の人生で起こったこととの和解とは、個人的な人生で遭遇する悲喜を受け入れ、執着を手放すことを指す。自分の人生を物語として語ることは、その大きな助けとなる。
 上記を踏まえ、本書では、アーレントの著作が示す和解の側面を示す。なぜ私たちは思考することにおいて世界との和解をこころみるのか。その問いの切っ掛けとしたい。

第Ⅰ部 言語

第1章 言語を信頼する

 世界から疎外された「無世界性」を生きる者は、どのようにして世界と和解するか。アーレントは、18世紀末から19世紀初頭にかけて生きたユダヤ人女性について記した著書『ラーエル・ファルンハーゲン』において、言語への信頼を通じて自らを世界や歴史と結びつける過程を示している。
 アーレントは、彼女が生きた時代からほぼ100年前に亡くなったラーエル・ファルンハーゲンに対して深い親近感を抱き、この評伝を執筆した。ラーエルとアーレントが共有した問題の1つが、言語について――とりわけその「保存」という属性について――である。そうした言語観に立ち、2つの次元の間に生きた(例えばユダヤ人としての出自に対する両極的な態度)ラーエルの「自分と世界という難問」について、同書は書かれている。
 ラーエルのような中間的存在の生は、アーレントにとって新たな展望の可能性を示すものだった。ゲーテの作品によって歴史や言語への信頼を学び、自らのユダヤ性を肯定したハイネに後を託すことができたラーエルは、「人生に自分をむきだしに曝すこと」とその人生を言語化することで、それを果たそうとした。
 この伝記は、ラーエルの人生という特殊(個別?)なものから「普遍的なもの」を見出すための「範例」であり、ラーエルの「正体」を描き出そうというものであり、それ自体、人々に共有される永続性を獲得したものでもあった。
 アーレントが信頼すべきと考えた言語の力とは、固有の人格、すなわち「正体」が、公的領域に現れることを可能にし、人の一生を超えて保存されるという点だった。その根底には「あらゆる人間のうちにある人間的なものにたいして信頼を抱くこと」がある。

第2章 世界の複数性に戻る

 アーレントによれば、人間の思考は個人的に切り離された次元で行われるが、一方で他者と共有されなければならない。それを可能にするのがメタファーである。
 アーレントの試みの本質は、伝統の「破壊」であった。凝り固まった伝統的な概念をまず破壊し、その本来的な在り方を回復させようとする――それは海底に沈積したものの中から真珠を拾い出す「真珠採り」のメタファーとして理解される。
 アーレントは、メタファーの3つの特徴を示す。それは、非感覚的な経験を感覚的に表すことができること、異なる領域間(不可視と可視、未知と既知など)の架け橋となること、そうした互いに相容れない感覚を結びつけ(和解させ)リアリティをもたらすこと、である。これらによってメタファーは、自分以外の他者がいるという状態(複数性)において、思考・不可視のもの・非感覚的経験を共有することを可能にする。
 一方、メタファーには危険性もある。伝統的なメタファー(特に視覚的メタファー)は、時として自明に思われるあまり、思考停止的に受け入れられてしまう。それは、伝統的カテゴリーや概念の本来の文脈から切り離され「凍結された」状態で理解されることでもある。
 ヴィラやクリスティヴァによれば、自己のうちでなされるというハイデガーの「本来的開示」に対して、アーレントの「本来的開示」は、公的空間・政治的行為という複数性の中でなされる。人間が言葉を互いに交わし、自らを表明し、共通の世界を確保するものとして政治を考えたアーレントのメタファー論は、ハイデガーの云う「存在の開示」を世界の複数性に結びつけ、リアリティを持たせるものだとも考えられる。同時に、こうした世界との和解に欠け、「世界から退却」した場所で思索したハイデガーに対し、アーレントは批判的だった。
 アーレントにとってのメタファーとは、個人的な思考が政治的側面(≒複数性が姿を現すこと)を有することを可能にするものだった。彼女の言語思想とも、物語論とも、言葉が他者と共有されることでリアリティを確立する助けとなるメタファーは、密接に関連していると言える。

第Ⅱ部 思考

第3章 空間を創造する

 哲学と政治、あるいは思考と行為という対立する概念を克服するため、アーレントヤスパースと同様に重要視したのは、互いに語り合う自由に基づいた対話の「空間」だった(この「空間」の破壊こそが、全体主義的な世の中の到来である)。この対話の空間の実践モデルとして、思考の世界と現象の世界という矛盾する両方に精通していたソクラテスが挙げられている。
 真理は臆見の中にあり、それは他者との対話によって表れ、それにより人々が友人として対等に語ることができる「共通世界」が生じるとしたソクラテスの考えは、上位から市民に真理を“教育”しようとしたプラトンの考えとは明確に異なる。アーレントによれば、この「共通世界」の建設を補助することこそが、ソクラテスの政治的役割だった。
 こうしたソクラテス観は、伝統的な哲学的思考への批判を伴う。例えばプラトンの「洞窟の比喩」は、彼女にとっては哲学者が人々の生きる共通世界から疎外されていく様を描いた伝記だった。哲学者とは現実世界に対する驚き(衝撃)を人々よりも強く・長く抱く者であり、そうした衝撃が言語化不能なことと併せて孤立を余儀なくされる。哲学を政治と対するものと位置づけ、外側・上位から市民を支配しようとするプラトン哲人政治的な考え方(=複数性の破壊)は、ここから生じたとされる。
 共通世界・現実世界との関係性の喪失は、プラトン以後の哲学的伝統にも引き継がれた。アーレントソクラテスに見出したのは、そうなる以前の、ポリスの中心で議論される対話の姿だった。
 虻、助産師、しびれエイといったソクラテスを表す比喩の根本は、思考によってそれまで確信的だった物事に対して懐疑を抱く経験である。その際の困惑と、思考すること自体を継続しようとする指向(ソクラテス的エロス)を、ソクラテスは他者と分かち合い、人々を刺激しようとした。
 他者とだけでなく、自己との対話の政治的有意性――全体主義が人々のあいだの空間を破壊することを防ぐ可能性――も、アーレントソクラテスに見出している。彼女によれば、ナチスに協力することを拒否した人々が持っていたのは強固な道徳規範などではなく、自覚的に自己自身と無言の対話をし続けるという傾向だった。自分自身の中の複数性との対話でもあるこの「単独性」こそ、政治的空間を成立させる必要条件だとソクラテスが発見したものである。
 ただし、こうした自己との対話は「自己への関心」を前提としており、全ての人が無条件に行えるかは分からない、とアーレントは注意する。個人的な良心は「自己への関心」に基づくので、即ち政治的なものではないが、政治的な運動に繋がらないというわけでもない。
 ソクラテスの言説をアーレントが解釈したところによれば、「一者のうちの二者」によってなされる自己との対話は、社会や習慣に基づいた道徳律を守る類の良心ではなく、自分自身と調和し安らかに生きることに関わるような良心に結びついている。従って通常は社会にとっては有用なものではないが、「政治的緊急事態」――例えば全体主義が台頭する局面――では、個別的な判断力を発揮し、自由な空間の破壊に抵抗する意味で重要となる。

第4章 過去と未来の間の裂け目で動く

 現実世界との「和解」は、「過去と未来の間の裂け目」という思考の次元で起こるとアーレントは考える。世界の和解と密接につながる思考が、「無時間の今」で「動く」(過去を想起し、未来を予期する)ことだというのは、どういうことか。
 現実に起こったことは、思考され、意味を語られ、継承され、人々に「和解」されなければリアリティを失う。対ナチズムのレジスタンスについて述べたルネ・シャールアフォリズムも、カフカの寓話も、そのことを示しているとアーレントはいう。
 そうしたことを考える思考は、日常的な次元の時間ではなく、「過去と未来の間の裂け目」、「非時間の空間」でなされる。中世哲学の「ヌンク・スタンス(the nunc stans)」とも結びつくこの境地は、示すことはできても伝承することはできず、各個人が個々に発見しなければならない。
 こうした「非時間の空間」「無時間の今」は、カフカが自作の描写を通して想定したような“時間を超越した形而上学的な永遠”ではなく、人間的な時間のうちにある「空間的次元」であるとアーレントは考えた。それは、交差する過去と未来のベクトルに対して対角線のベクトル――人間的な時間の中にあり、過去と未来のいずれにも偏らず逐次の問いに逐次の答えが導き出せる――としてイメージされる。
 また、この「空間的次元」の前提としてあるのは、複数性――個々の人間はユニーク(唯一)であり、同時に平等である――の概念である。西洋哲学の伝統であり、カフカの考えたような永遠性においては、この複数性は破壊される。
 この「裂け目」という言葉には、過去から未来へと続いたであろう「伝統」が「断絶」するという意味も含む。近代以降を生きる人は、この「断絶」によって、過去への尊敬を失った、ということになる。
 『過去と未来の間』の8つのエッセイは、そうした思考――何を、ではなく如何に思考するか――の試みである。それは、「出来事の物語」たる過去(=歴史)を理解する(偶然的な連なりとして把握するのでなく、何らかの意味を持ったものとして和解する)ことであり、自らの手で「現象のリアリティ」としての過去を、2章の「真珠採り」のメタファーのように新たに発見することでもあった。
 これらの思考(想起)は、日常とは異なる時間の次元で起こる。経験された出来事の意味を知ることは、その出来事が感覚的には与えられない時、つまりこうした「世界からの退却」においてしか可能にならない、とアーレントは言う。
 この次元での思考は、未来を予期することにも繋がる。過去を意味づけ継承し、未来に遺そうとする「遺言」としての思考である。この「遺言」は、出来事に「完成」をもたらす物語の形をとって現れる。しかし、アーレントによれば、そうして遺されるのは化石化した過去の保存物ではない。人間の能力である「自由であること」、「新しいことを始めること」の現れとしての記憶である。ルネ・シャールアフォリズムの言うレジスタンス運動が果たしきれなかったもの、ローマ人がギリシア文化に畏敬の念を抱き、気遣って伝えたものは、そのような思考に基づいている。
 この思考は、世界――人間の行為と言葉の集積体であり、それらを記憶して遺す人工物の集合体たる公的空間――の永続性と結びついている。この意味での世界は、1人の人間の一生の遥か前から存在し、その死後にも存在していくと言える。
 しかし、近代以降、こうした意味での世界への関心――本当の意味での“不死”への関心――は失われた、とアーレントは批判する。ソクラテス以後、西洋の伝統では“永遠なるもの”への関心よりも一段低く見られてきたこの“不死”への関心こそ、政治に――自由が現れるうる空間を樹立し、それを存続させることを旨とする政治に――不可欠なものであるという。
 以上のような思考の実践である『過去と未来の間』所収のエッセイは、アーレントの時代の「眼前の現実」との「和解」の試みと言える。例えば「教育の危機」では、当時のアメリカでの教育について、持論に基づいた具体的な考察を行なっている。
 『精神の生活』では、歴史的名著が長い歴史の中で生き延びてきた理由を「非-時間の小径の中で生まれたことによる」としている。筆者はアーレントの著作もまた、同様の出自を持っており、その点についてアーレント自身も意識的であったろう、とする。
 現代社会は、「暗い時代の人間性において」でアーレントが用いた「暗い時代」に恐らくは合致する。人々が世界から自己へ逃避し「親密性の暖かさ」に引きこもり、世界が永続性を失い、無世界性――新しいことをもたらす「始まり」としての行為の可能性が排除されることを示す――が政治に現れてくる現在、過去と未来の間の思考は、こうした事態に対抗し得る。

第Ⅲ部 構想力

第5章 世界の中で方向を定める

 アーレントの考える、「世界との和解」のための精神活動(「理解」と「判断」)に不可欠なのが「構想力(Einbildungskraft,imagination)」である。
 「真理と政治」の中で、アーレントは他者のみを騙す「伝統的な政治の嘘」と自らをも騙す「現代の政治の嘘」を対比する。前者は織物に穴を空けることだとすれば、後者は織物自体をそっくり別物に作り替えること、「イメージの呪文」である。この「現代の政治の嘘」により、物事の「事実性」が破壊され、現実の世界において「方向を定める感覚」「リアリティの感覚」は動揺した。この「方向を定める感覚」「リアリティの感覚」を支える「内なる羅針盤」が、「構想力」であると考えられる。
 「構想力」とは「共通感覚」に基づく能力である。トマス・アクィナスとカントの影響を受けたアーレントの考える「共通感覚」とは、“私的な感覚を共通世界の多くの人と共有している”という実感をもたらす、人間固有の感覚を指す。この感覚はまた“自分だけの判断”と“他者がするだろう判断”を比較するという意味で、人々が物事に下す「判断」に密接に関わる。

 構想力は、「理解と政治」においては「理解する心」――世界の中で複数の人々と共存することを可能にする能力――と同一視されている。物事から適切な距離をとり、他者との間の深淵には橋を架けるこの力は、物事の外側から全体像を眺める「注視者の立場」をとることで「理解」を可能とする。「注視者」は、全体を見渡すために物事の外側に遠ざかるが、現象の世界から完全に退却し孤立する「哲学者」とは異なっている。
 構想力はまた、「視野の広い思考様式」、「範例の喚起」という2つの能力によって、非政治的な「思考」を現実化し「判断力」として現出させる。
 「視野の広い思考様式」とは、主観や私的条件を逸脱し“自己の判断”と“他者が下すだろう判断”を比較検討する考え方であり、「範例の喚起」とは特殊性のうちに普遍性を知覚できるような(勇気を評価するならアキレス、善良さならば聖フランチェスコ、のように)「範例」を想起させることを意味する。
 この2つの能力に共通するのは、いずれも自己と世界との接触を確立し、安らぐための精神の活動であるという点である。
 「構想力」と「注視者」の結びつきは既にカントに見られるが、アーレントは更に独自に発展させた。「思考」と「政治的リアリティ」の間に位置する「構想力」から、「注視者の立場」は不可分である。言い換えれば、「思考」と「政治的リアリティ」が分離した状況を克服する鍵として、アーレントは「構想力」を考えていたと言える。

第6章 感覚の世界から離れる

 「構想力」の働き――とりわけ「脱感覚化の働き(the de-sensing operation)」――は、共通世界との和解をなす「他者に開かれた精神」を可能とする。アーレントが晩年を費やして思索したこの働きは、現象の世界から「退却」した状態、精神の再現(Re-presentation)の働きの前提条件とされる。「感覚に与えられている個々のものを感覚から引き離しイメージへと変形する」働きだとされる脱感覚化は、可視の視像から不可視のイメージへ、不可視のイメージからから類似する内的視像へという2段階の変形を経る。可視の視像から不可視のイメージへの変形により、個々の経験が「直接の場面」から離れ「思考の対象」として蓄積される。アーレントはカントを踏まえ、この内面化され蓄積されたものを判断の対象として、次なる反省の作用があるものを判断するのだ、とする。こうした外的感覚から内的感覚への移行、構想力の脱感覚化の働きを、アーレントは「盲目の詩人」になることだと喩える。

 「盲目の詩人」、そして「精神の目」という言葉は、可視的・表面的な事物に捕らわれず、「特殊的なものに意味を与える全体」を、5章で言及された「注視者」として見るということを指す。この「注視者」の「精神の目」と、プラトンの「魂の目」とは異なる。「精神の目」は、出来事の外部に退却はするものの、その立場は普遍的で、公平性を旨とする「裁判官の立場」であり、哲学者がもつ感覚的知覚を超越した「魂の目」に対し、「精神の目」は感覚を超越したり否定したりしない。
 「脱感覚化の働き」によって「精神の目」を獲得することは、判断の対象が可視から不可視となるだけでなく、判断する精神が公平性(非関与性、没利害性など、他者に対して開かれた精神であること)を獲得し、「普遍的立場」に立って対象の特殊性について判断する、ということになる。

 精神の「運動の自由」に特徴づけられる「普遍的立場」を可能としているのが、アーレントがカントに見出した、構想力の「視野の広い思考様式(eine erweiterte Denkungsart)」(5章参照)という側面である。この言葉の解釈には、「真理と政治」、『カント政治哲学の講義』という著書の中で若干の差異はあるものの、精神が「立場から立場へと」動くという点では共通している。この種々の「特殊的な」立場の間を動くことで、アーレントの言う「普遍的立場」は達成される(漠然とした平均値的・最大公約数的な意味での「普遍」ではない)。この「立場から立場へと」動くことを、アーレントは、自分の精神が他者の立場を「訪問(visiting)」することである、と言う。構想力の「脱感覚化」によってもたらされる「視野の広い思考様式」に至る精神の働きの過程で、精神は主観的・私的な制限や条件、あるいは私利、先入観といったものから解放される。
 こうした考え方は、“自由”というものについてのアーレントの考えに基づいている。彼女にとっての自由とは、他者を退け主権を確立するような概念(主権性)ではなく、他者との間を自在に「動き」、その立場を「訪問」し、「これらの特殊性」から「ある公平な普遍性」へと達するような自由を指すと言える。

 この「普遍性」は他者に伝達可能であるが、それは私的・非伝達的な感情が、「視野の広い思考様式」を通じて「他者との先取りされたコミュニケーション」(潜在的な他者とのコミュニケーション)のための条件を確立し、伝達可能性を得るためである。伝達可能性の本質とは、その判断が他者の同意を「せがむ」「乞い求める」――その人の共通感覚に訴え「説得」するもの――であることである。ただし、ここで引き出される妥当性は共同体の地平に限定された普遍的(general)妥当性であり、潜在的対話を行った他者の地平を超えて妥当する普遍的(universal)なものではない。

 自らの内に他者を「再現」して普遍性に至ろうという「再現的思考」について、リサ・ディッシュは指摘する。カントのそれは普遍的・哲学的(あらゆる他者の立場に立つため、その主体の立つ偶発的状況の制限から分離する[抽象作用])で、アーレントのそれは文学的・物語的(精神の内に複数の他者を置いた“公的空間”の観点から思考する)である、と(『ハンナアーレントと哲学の限界』;Lisa Disch,"Training the Imagination to Go Visiting"in Hannah Arendt and the Limits of Philosophy)。
 普遍性に至るカントの再現的思考に対し、アーレントのそれはついに個々の特殊性から離れられない、というディッシュの説は、「普遍性」と「特殊性」が相対立する構図を想定している。しかし、アーレントの言う構想力の「脱感覚化」の作用は、個々の「特殊性」を含みながらも到達する「公平性としての普遍性」を指す。ここでは、両者の対立という構図自体が無効化されるのではないか。

第Ⅳ部 文学

第7章 世界と和解する

 アーレントの人生や思想は、自らの親しんだ文学と不可分であった。彼女はドイツの詩を愛し、自ら詩作も行なったし、詩人や小説家との交友も知られている。著作においても文学への言及や考察が頻繁に登場するし、『ラーエル・ファルンハーゲン』(1章)、『暗い時代の人々』などでは物語の語り手を担ってもいる。
 アーレントは、文学をただの空想ではなく、「世界の出来事の意味を理解する明晰な洞察力」――「真理」を示すもの――と捉えていた。例えば『革命について』では、メルヴィルの『ビリー・バット』、ドストエフスキーの「大審問官」への考察が挟まれ、それらがフランス革命の当事者も把握していなかった意味について証言している、としている。
 または、「フランツ・カフカ再評価」や『過去と未来の間』序では、『審判』『城』などカフカの作品を世界の現実の隠された構造を剥き出しにする「X線のごとき力」を持つ、としている。
 こうした洞察力を示す文学は、“世界との和解”の前提となる「世界理解」の可能性を、アーレントと他者が共有する場となったと言える。

 これら文学が明晰な洞察力を持っているのは、「構想力」によって、それらが世界から相応しい距離を保っていること(「世界からの退却」「注視者の立場」)による。これはまた、文学が、4章で示されたような〈もはやない〉と〈まだない〉の間で働く、想起と予期の力を有していることでもある。
 例えばアーレントはイサク・ディネセン論(「序」にも登場)において、「十分に生きる」ために自らの人生に起こったことを想像力によって想起し、反復することとしての物語が必要であるとしている。また、カフカの作品は〈もはやない〉と〈まだない〉の間の次元に存在するとし、とりわけ『城』には、与えられた世界の解体と、〈まだない〉新たな世界を予期する力を認めている。彼女にとっての文学は、「非時間の空間」(4章)における思考を示すものだったと考えられる。

 文学(物語)には、人が世界を受容し「世界の中で安らう」ことを助ける側面もある(「序」参照)。
 この見方は彼女のディネセン論に色濃いが、“人生についての物語の出来を待つ”ことと対比的な「ある「観念」を実現するために人生を用いる」(=物語を現実ならしめようとする)ことには、ディネセン自身否定的であり、アーレントもまた、その著作で否定的な立場を表している。それは同時に、プラトンの言う「制作」――超越的なイデアを青写真に人間の在り方を規定しようとする哲人王的な世界との関わり方――の批判でもあった。
 物語による世界の受容は、個々人の人生の特殊性を切り離して普遍性を獲得する(「意味を定義する」)哲学に対して、個々の特殊性と普遍性を共存させる(「意味を明らかにする」)ものとして考えられる。
 ディネセンが「想起」を通じて安らおうとしたのに対し、アーレントカフカを〈まだない〉世界の「予期」を通じて世界の中で安らおうとしたと理解する。彼に付随する「制作」のイメージは、“人間の内”から決定されるものであり、プラトンのそれとは異なる。
 物語による受容の力は、人間の「苦悩の能力」と不可分でもある。「世界の喪失」が起こり「人間と人間の間の関係が滑り去」る「砂漠」で「政治的なもの」が脅かされる状況を好転するために、この苦痛・損害・不幸を被り堪え忍ぶこの「苦悩の能力」は、「行為の能力」と並んで必要とされる(「砂漠とオアシスについて」『政治とは何か』所収)。

 アーレントにとって文学は、無世界性から世界への帰還の可能性を示してもいた。「非時間の空間」での思考を促す文学には、思考する者を無世界性に閉じ込める可能性も有すが、アーレントヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』の読解(「〈もはやない〉と〈まだない〉」を通じ、世界の現実へと帰還する可能性も示す、とする。それは、第一次世界大戦による「伝統の断絶」によって生じた「深淵」(無世界性)からの「脱出路」としての、『ウェルギリウスの死』の解釈(「美という虚ろな領域」「虚ろな形式と虚ろな言葉」に閉じ込められる危険性から脱出するための模索としての、小説の主人公ウェルギリウスの決断)だった。
 ブロッホの作品に見出したような「無世界性からの脱出」を、アーレントはハイネやカフカのようなユダヤ人たちの作品にも見出していた。その背景には、迫害を受けたことでユダヤ人達が至った「無世界性」――世界の諸事件からの後退、政治的行為へのためらい――を乗り越える方法を明確化しようとする意思があったと考えられる。

 文学のジャンルのうち物語について見てきたが、他の文学ジャンルはどうか。
 アーレントにとっての詩とは、受け容れがたい世界に接近する際に付き添ってくれる「避難所」のような言葉だった(1章の『ラーエル・ファルンハーゲン』におけるゲーテの詩のように)。詩の持つ“カタルシスによって情緒を洗い流し変換する”――悲嘆を哀歌に、歓喜を賛歌に、個別を普遍に――力に、アーレントは注目する。ハイネはユダヤ人パーリアの「政治的な非-存在と非現実性」を芸術世界を生み出す基盤へと“変換”した。
 ユダヤ人パーリアにとって、「世界における避難所」としての詩の機能は、自分たちがドイツ語に接近する媒介ともなった。これはアーレント自身も、亡命経験を通じて自ら確認したことでもある。
 音韻を持つゆえの詩の「翻訳不可能性」は、不在のものを現前させる「想像力」の働きにも関わるだろう。
 「避難所」としての詩の意味は、「砂漠とオアシスについて」の「オアシス」に関連づけて理解できるかもしれない。ここでの「オアシス」とは、現実逃避のためでなく、現実という「砂漠」を根気よく変えていくための「行為の能力」と「苦悩の能力」を発揮できるよう「生命を与える泉」を意味する。

 「書かれたページや印刷された本」という、“現象の世界に存在する印刷物”としての文学という観点もまた、アーレントにとって重要だった。行為と言論という「はかない出来事」を物化・永続化し、忘却の淵から救う「最高の能力を持つ〈工作人〉(homo faber)」として、彼女は「芸術家、詩人、歴史記述者、記念碑建設者、作家」を挙げている。ここで永続化される行為や言論とは、循環的なゾーエーを断ち切り直線的な軌跡を描くビオスの位相での出来事を指す。
 文学の力とは、トロイ戦争を不滅化したホメロスの詩のように、「政治的なもの」に永続性を与え、行為と言論に相応しい場所である世界を創造し、その永続性を支えるものである。そうした力に、アーレントは希望を抱いていた。

感想

 第一に言えることは、「政治」というテーマが前景として語られることの多かったハンナ・アーレントの解説書に対して、本書は「言語」「思考」「構想力」「文学」といった“それ以外”の対象に注目したものであるということである。従って、本書を出発点にハンナ・アーレントの全体像を掴むには、逆に「政治」について他で補う必要があると思われる。

分かったこと

 そうした位置付けを確認した上で、本書の内容において、まずは私にとって分かりやすかったことから書こう。
 2章までは特に平易に思えた。主題である「世界との和解」と、その逆の状態を表すと思しき「無世界性」は、飲み込みやすい概念だろう。誰しも己の気分やその日の運・不運によって、自分は「世界と共にある」とか、逆に「世界に見放されている」といった気持ちになることはあるだろう。そういう気持ちが、ある程度の持続性を持った状態を表しているのだと思う。
 字面としては「世界との和解」に関わりが深そうな「全体主義」が、実は「無世界性」に根ざしたものだという考え方も興味深い。その主張にアーレント自身の実体験が反映されているということに身近さを感じつつ、現代社会にも浸透していると感じられる全体主義が奇怪な怪物のように思えて、薄ら寒かった。

 その「無世界性」を脱して「世界との和解」に至るのに、言語への信頼――書物や言葉を通じて自らを歴史や世界と結びつけることが有効である、という説にも頷きやすい。なぜ読書をするのか、ということについては色々な意見があると思うが、“世界と和解するため”という言い分があってもよいだろう。
 全ての人間が「死すべき人間」(何かの罪によって死ななければならない、という意味ではなく、いつかは必ず死んでしまう儚い者、という意味だろう)である以上、世界(人の生死と無関係に永続する)とはそもそも大きな隔たりがある。個々の人が本や言葉を遺すことで、その隔たりをどうにか埋めている、というイメージだろうか。「死すべき人間」と「永続する世界」と書くと殆どSFな字面にも思われるが、実態は割と地道な作業という気もする。

 「世界との和解」が、“自分以外にも多くの人がいる”という考え方=「複数性」に基づいてなされる、という点も受け容れやすい。そのために有効となるのがメタファーということだが、その利点と欠点についての説明の、特に欠点については印象深かった。
 比喩は現在も広く用いられているが、しばしば適当でない比喩によって話していることの焦点がぼやけているのではないか、と思われることがある。本線であるはずの話の主題が比喩表現に引っぱられて、正しく判断できない危険を感じるのである。本書の記述は、このことを確認できるものだった。

 思考と行為の次元を自由に往還し、「複数性」を損なわずに市民が語り合う場を現出させたというソクラテスと、哲人政治を掲げたプラトンの対比も興味深かった(3章)。ソクラテスは生の言論を重視したために自らによる著作が存在せず、後世の人間は主に弟子のプラトンの書物によって彼を知ることになるが、そのため両者を系譜を同じくする者とする傾向は、どうしてもあるだろう(私自身、そうだった)。
 しかし、アーレントと著者によれば、両者は対立するほどに違う。前述のようなソクラテスの態度に対し、プラトンと彼以降の西洋の「哲学者」達は、どこかにある真理を求めて世界から退却し、その退却先から世界を睥睨するような存在だったことになる。本当にその通りか否かは、他の哲学者たちの言い分を見なければ判断できないが、西洋哲学全般を向こうに回したこの主張は衝撃的と言えるだろう。

 いずれにせよ、人が「世界との和解」について思考を展開するとき、その思考は「過去と未来の裂け目」という次元で行われるという(4章)。「無時間の今」「非時間の空間」といった言葉遣いも含め、これもまたSFと見紛うような字面だが、「人は何故…」とか「いま世界は…」という主語で考える時、確かに人間は日常的な時間軸を超えて、心の中で太古から遥か未来までを総覧していると言えるのではないか。それを少し文学的に表現すれば、上述のような言葉になりそうである。

 「世界との和解」のための精神活動に不可欠だという「構想力」と、これに付随する説明(5、6章)も概ね分かったように思う。構想力というと見慣れないが、英語では「imagination」という語が用いられているし、単純に「想像力」と読み替えてよさそうである。日常的な言い方をすれば、「もしも自分が○○だったらどうする」と想像して、判断の参考にする、ということになるだろうか。
 しかし、ここでより重要なのが、そうして想像した他者の判断と自己の判断を、公平に吟味するということだろう。本書では、それを「脱感覚化の働き」とか「注視者」とか、更には「盲目の詩人」という言葉で表しているのだと思う。恐らく現代においては、他者の意見を想像することよりも、公平を期する方が困難だろう。「現代の政治の嘘」(5章)が蔓延する状況からして、当然の帰結と言えるのかもしれないが。

 「序」の一部と7章で語られている、物語というものの必要性も納得できた。むしろ、普段は物語を読み継いでいるのだから、その意味では本書で最も同意できたと表現すべきかもしれない。
 読まれることで、読者が世界を知ること、そして世界の中で安らうことを助ける物語という見方は、とても素敵である。だいぶ前から「文学とは何なのか」という大仰な疑問を抱いていたものの、辞書を引いても関連しそうな講義を聞いてもいまいち分からなかった。
 しかし、本書を通じて、今はこう言える気がする。偶発性を必然性に変えるとともに、個別の生の背後にある“人生の類型”とでも言うべきものを読者と共有する、これを高水準で行うことのできる物語をそう呼ぶのではないか、と。

気になったところ

 重箱の隅をつつくレベルかもしれないが、分かり難かったことも挙げておきたい。
 まずは、ハンナ・アーレントにおける「政治」という言葉の定義である。これはむしろ、彼女を扱う他の本にすれば基礎的な話なのかもしれないが、通常の「政治」という意味合いでは賄いきれない範疇を指しているように思える。今年3月にちくま文庫として出版された『政治の約束』などは網羅的な内容と聞くし、書名からしても、この疑問にシンプルな答えを見いだせそうな気がしている。

政治の約束 (ちくま学芸文庫)

政治の約束 (ちくま学芸文庫)

 

  次に3章で言及された「空間」についても、もう一つピンとこなかった。単純に“スペースがある”ということではなく、そういう状況を“お膳立てする”というくらいの意味だろうか。その後のソクラテスの在り方などを読んでいると、それ位の意味合いかと推測はできた。
 また、「趣味判断の文脈」(6章[p.260])とはどういう意味かも、本書だけでは分かりかねた。元はカントの言葉のようだし、カントに当たらないといけないのかもしれない。

 疑問点もある。4章で言及されている、「時間の奥底」という「非時間の次元」での思考だが、これは3章で触れられたプラトン以来の「哲学者」のような“現実からの後退”と同じように解釈しようと思えばできなくもない。7章でも、文学が読者を「「無世界性」に閉じ込める危険性」を有すると書いてある。
 これらを総合すると、「世界との和解」を指向するはずの「非時間の次元」に入ること自体が、「哲学者」や「無世界性」という属性にも接近するということになる。それ自体は納得できそうだが、「世界との和解」と「無世界性」という相反する属性の、どちらに向かうことになるかを規定する要素はあるのだろうか。あるとして、それは何か。7章の当該部分は『過去と未来の間』の記述に立脚しているようなので、確かめてみたい。

過去と未来の間――政治思想への8試論

過去と未来の間――政治思想への8試論

 

 単純な言葉遣いという意味では「パーリア」という語の意味が今ひとつ分からなかった。幾度か登場するのだが、辞書的には不可触民という意味である。
 意味は分かるのだが、実態として理解したとは思えない。人種というものがアーレントの人生を特徴づけたことは疑いないが、それほど日本人であることを意識した(させられた)経験のない私は、恐らく本当の意味でその深刻さを理解したとは言えないのだろう。

 言葉遣いという点で言えば、「つながる」とか「関わる」とか「特徴づける」という言葉がかなり頻出し、多少の違和感を覚えたことも記しておきたい。これらの言葉は、実のところどういうことを言っているのだろう、という問いが湧いてきたりもした。
 例えば「関わる」とは、複数の事物が「何らかの関係をもつ」ということである。その「何らか」の部分が判然としていない気がする。日常的にはそれで意味が通じるから問題ないのだが、言葉について厳密であろうとする本書のような書籍においては、もう少し使い方に検討が必要ではないかと思った。
 内容面で更に言えば、特に4章以降、記述がやや重複している部分がしばしばあるように思われた。これは、既に「序」において著者が断っていることでもあるが(p.38)、それにしても、もう少し簡略化できたのではないか、と思う。

 最後に、これこそ重箱の隅なのだが、本に携わる者の端くれとして、7章末尾の記述についても触れよう。
 ここでは、「行為と言論という「はかない出来事」を物化、永続化」するとして、著者が称揚されている。しかし、物化・永続化されたものが「書かれたページや印刷された本」であるのなら、著者だけでなく、編集者・編纂者や図書館運営者・司書といった人々も含めてよいのではないだろうか。むしろ、著者が没した後にも、そうした人々が尽力しなければ忘却されてしまうことを考えると、その役割は同等に重要ではないか、と思う。

今後の読書に向けて

 あまり揚げ足を取るようでも仕方がないので、あとは本書に登場する人物や本から、今後読みたいものを拾ってみたい。
 まず、アーレント自身の著書としては、『ラーエル・ファルンハーゲン』『暗い時代の人々』といった伝記的著作がやはり取っ付きやすいだろうか。逆に思想的な意味での主著である『全体主義の起源』や一大論争を巻き起こした『エルサレムアイヒマン』などに一気に寄っていく道もあるだろう。昨年に新版が出たこともあり、入手はし易いはずである。

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

 
全体主義の起原 1――反ユダヤ主義 【新版】
 

  前述の『政治の約束』という訳書も気になるところである。アーレントの草稿を編集したものらしいが、巻末には訳者による概要(といってもそれ自体20ページは下らないものだが)も付されており、便利かと思う。すぐにとは思えないが、いずれ手に取りたいと思う。

 文学に1章割いているだけあり、本書は文学作品への言及も豊富である。プラトンの諸作、カフカの『城』や『審判』、ヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』などに興味を惹かれた。特にブロッホは全く読んだことがないので、今後読む予定に加えたい。

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

 
審判―カフカ・コレクション (白水uブックス)

審判―カフカ・コレクション (白水uブックス)

 

 が、本文中で『ウェルギリウスの死』の核心が結構ストレートに語られているので、すぐに手に取るのは気が引けてしまう。『ウェルギリウス』未読の方は、本書7章に注意されたい。ただし、『ウェルギリウスの死』は現在のところ簡単に参照できそうな訳書がないようでもある。
 また、手元にハイネの詩集は持っているものの、ユダヤ的な文脈で考えたことがなかった。そういう視点を持って、少しめくってみたいと思う。

 

 この1年、この本を座右に置いて、仕事をしたり他の本をめくって眺めたり、この本と取り組んでみたり、という毎日を過ごしていた。通読すること自体は困難ではなかったが、要約し、どう感じるかをまとめる作業には思わぬ時間を要した(もちろん、その間に割と色々な仕事が立て込んでいたという事情もある)。
 こうした本を読む際には、普通の本とは違うスパンで考えなければ、と思う次第である。仕事も途切れ、今後はもう少し本を読めるのではないだろうか。

ハンナ・アーレント: 世界との和解のこころみ

ハンナ・アーレント: 世界との和解のこころみ