何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』の感想


(2004年8月読了)

 近未来の苦学生と宇宙人を描いたノスタルジックなSF漫画『NieA_7(ニア・アンダーセブン)』の作者として知っていた、安倍吉俊の表紙絵に惹かれて読み始める。滝本作品の表紙はだいたい安倍氏が手掛けているようだ。以下、まずはあらすじを。

あらすじ

 親元を離れて北国で下宿しながら学校に通っている高校2年生の山本陽介は、ある日スーパーで高級霜降り和牛を万引きした帰り道、セーラー服にナイフと木刀で武装した雪崎絵理に出会う。彼女はたった1人で正体不明で不死身の存在、チェーンソー男と戦う戦闘美少女である。
 絵理の可愛さと、戦いという非日常性の魅力に惹かれ、陽介は絵理の手助けをしようと考えるが、チェーンソー男の出現と同時になぜか超人的な戦闘力を身に付けた絵理の助太刀ができよう筈もない。仕方なく裏方に回った陽介だったが、冗談を飛ばしては外してローキックを叩き込まれつつも、次第に絵理と打ち解けていく。
 夜ごとチェーンソー男と戦いながらも、テストで赤点を取って教師の加藤に説教されたり、下宿の隣室に住む悪友で躁鬱の気がある渡辺の作曲活動を見守ったり、母親に代わって下宿の管理人になったお姉さんに怒られたりという日常を過ごす陽介。安穏として、平凡で、「嫌だ」と思っても何が嫌なのか具体化できない日常に対して、チェーンソー男は明確に世界の悪だった。そしてそれは、陽介に一か月前に何かに挑むようにバイクを無謀運転して事故を起こして死んだ友達、能登を思い出させるのだった。
 弱体化しつつあったチェーンソー男だったが、東京に家を持った父に呼ばれた陽介がそれに従い引っ越すと絵理に伝えた時から急速に力を盛り返す。劣勢が込む絵理に対してもう陽介はもう戦わないで欲しいと伝えるが、絵理は一度は了解したものの最後の戦いに身を投じていく。
 明かされた絵理の哀しい事情。渡辺が作曲し、能登が作詞したおかしな歌。陽介は絵理の思惑を悟り、盗んだバイクで彼女の元へとひた走る。
 チェーンソー男は消える。世界の不条理と無常と無情に晒されながらも、陽介も絵理も、まだ生きている。

感想

 世界の不条理の具現体と戦うことで、自らに意味を見出す2人の物語、という感じだろうか。文体や設定はかなりライトノベル寄りで、適度に頭の悪い陽介視点による描かれ方はなかなか面白い。親和性が高いのだろう、映画化、漫画化もされている。 

  漫画は未読だが映画はたまたま観たことがある。ワイヤーを用いたであろうアクションシーンが少しイメージと違ったが、絵理の佇まいや渡辺の歌など、良いと思ったところもあった。

 そんな軽快な作風の作品だが、一方で「日常には明確な悪が存在しない」という、近代以降の文学がずっと嵌まり続けているだろう1つの問題に、かなり深く切り込んでいるように私には思えた。例えば夏目漱石道草』(当該記事)では日常の色々な面倒ごと(ここでは主に金策だが)を指して「片付かない」という言葉が繰り返し表現しているが、その諸々の「片付かない」を凝縮し、1個にまとめたものとしてチェーンソー男が置かれているのではないか、ということである。

 しかし、チェーンソー男は不死身であり、生身の人間はそれ――面倒だったり不条理だったりする諸々に、勝つことができない。ただバイクで死んだ能登だけが、永久に勝ったのである。この能登とモノローグで対話(言葉的に矛盾しているがそう表現したい)しながら陽介がバイクを駆るシーンが、人生に対する諦めと同時にそれを一瞬でも超えようとする青春の無鉄砲さが出ていて、良かった。
 そんな不死身のチェーンソー男に如何にして勝つか、という点が終盤の展開のメインになりそうだが、そこまでハードではなく、一転して「永遠には続かないけど、この日常を楽しもう」というような甘い結論に至る。初読時はここに非常にずっこけてしまったのだが、いま再読してみると、この日和った感じがこの作者らしいという気もする。

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)

 

 

 

プライバシーポリシー /問い合わせ