何か読めば、何がしか生まれる

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養老孟司『唯脳論』の感想


(2004年3月読了)

 2004年当時、駆け出しの編集者3~4人で読書会を数回やった(御多分に漏れず、そのうちに各人の現場が忙しくなって自然消滅した)のだが、これはその題材のうちの1冊である。1989年がハードカバー版の初版なので、読んだ当時からしても15年前、2015年現在からすれば実に四半世紀前の本ということになるが、以降の“脳”ブームの先駆として読みたい、と仲間内の誰かが推したのだった。

 あまり意味がないかもしれないが、目次を記載しておく。

本書の目次

はじめに
唯脳論とはなにか
心身論と唯脳論
「もの」としての脳
計算機という脳の進化
位置を知る
脳は脳のことしか知らない
デカルト・意識・睡眠
意識の役割
言語の発生
言語の周辺
時間
運動と目的論
脳と身体 エピローグ

感想

 あらゆる現象は、脳の働きが表出したものであるとする“唯脳論”の導入を経て、前半は脳と神経と末梢、それに付随する文化的・社会的事物についての講義。後半は唯脳論的立場から言語、運動、時間、社会、歴史などを読み解く。
 養老氏が解剖学の医師であることから、前半は医学的な読み物として精度の高いものと思うが、後半はなかなかに難解に思われた。いや、前半にしたって、脳を構造、心を機能と定義して両者が不可分であるとして心身二元論を否定する(「心身論と唯脳論」)など、なかなかに哲学的なエッセンスが充満している。

 後半では、運動系、知覚系、感覚系などの枠組みがキーワードとなっているのだが、いま語られている要素がそのどちらに属するものなのか、一読しただけで判別するのは難しい。暗喩が分かり難いところもあり、全体的な論の意味を解釈するのもなかなかに骨が折れた。しかし、難解ではあれど、この部分がなければ、よくある新書の1冊として埋没していったのかもしれない。
 総じての主張は「およそヒトに関わるもの全てが脳を媒介として現出している。が、“物自体”としての世界は既に存在する。また、脳はそれ自体“肉体である”という制約に縛られる」ということになるだろうか。

 挿話として、丸山真男本居宣長三島由紀夫など色々な人物が登場するが、それが精密に企まれたものであるか(論の補強に重要であるか)は微妙なところだと思う。もともと雑誌『現代思想』で連載されていたものなので、読者の興味の持続のため、ある程度は筆の滑りを許容した、というところではないかとも思われる。ただ、夢野久作の『ドグラ・マグラ』に言及しているところは流石と感じた。

 「身体の部分部分が思考する」という、「唯脳論」とは真逆のような実は通底しているような説が登場し、脳と心について執拗に掘り下げていく『ドグラ・マグラ』は、推理小説四大奇書に数えられると聞く。いずれ読まねばならないと思う(その後、今日に至るまでに読了)。

 広範な事物に言及している本であるが、上に書いたように、割と筆者の“遊び”がみられる部分もある。理路整然とした論説文という印象よりも、これはある種の随筆と考えた方がよいように思われた。

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

 

 

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