何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

ゆく年(2018年)におくる63冊

 今年も有象無象に忙殺されて読書は捗々しくなく、“昨年よりは少しまし”程度となりそうだ。それでも、ゆく年に捧げる本のリストを作ることは無益でないと信じて、今年もまた作りたいと思う。

 このリストは、1年間、世の中の動向などから興味が広がり読もうと考えた本や、人に薦められた本、実際に読んで心に残った本などを挙げるものである。
 個人的に今年を回想するもので、対象は今年出版された本には限らない。文学賞やベストセラーなどは勘案するが、現状で私が興味がない本についてはスルーすることも大いにあり得る。“興味がある”だけで読了していない本も多分にあるため、「お勧めの〇冊」「今年出た本から選ぶベスト〇冊」などとも性質が異なるだろう。
 要するに、他の人が見ても面白い保証はあまりない。が、1人の人間が1年間をどう考えて過ごしたかのサンプルにはなるのかもしれない。

 昨年までは幾つかの項目ごとに本を挙げてみたが、今年は試みに、月毎に区切って日付順で挙げてみようと思う。時間的経過を追うには、こちらの方が便利だろうと考えたのである。
 それでは1月から行ってみよう。

1月(11冊)
大地 (1) (岩波文庫)

大地 (1) (岩波文庫)

 

 1日、英文学者で翻訳家の小野寺健氏が亡くなった。何かのニュースでパッと見た時は気付かなかったが、よく思い返してみれば、岩波文庫などの英文学作品で訳者として幾度も目にした方だった。
 氏の翻訳による岩波文庫版のパール・バック『大地』は、ずっと積読になっている。大部で尻込みしていたが、手に取る機会なのかもしれない。

炎と怒り――トランプ政権の内幕

炎と怒り――トランプ政権の内幕

 

 5日、アメリカでトランプ政権の内幕を暴露した『炎と怒り(原題:Fire and Fury)』が刊行されて話題となった。邦訳版が出たのは2月下旬である。ついこの間、12月4日にはコンセプトを同じくする『FEAR 恐怖の男』も刊行された。
 氏の任期も残り半分ほど(2021年1月20日まで)。それが長いか短いかは、これらの本の内容をどう受け止めるかにもよるだろう。

広辞苑 第七版(机上版)

広辞苑 第七版(机上版)

 

 12日には、岩波書店から10年ぶりの全面改訂となった『広辞苑』第7版が刊行された。正直なところ、辞書は電子化すべきと私は思うが、本書が近年の辞書刊行におけるメルクマールであることは揺るぎないだろう。

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ヘルマン・ヘッセ『デミアン』の感想

 『氷菓』(当該記事)に始まる〈古典部〉シリーズ、『青春と変態』(当該記事)と、図らずもしばらく「青春」な小説を読んできたが、続けてもう1作加える形となった。家族が私の積読から掘り出して読んでいるのを見て、私も読みたくなったのである。
 ヘッセの作品として、もっとも有名なのは『車輪の下』だと思われるが、私は同作について未読である(別の高校に進んだ旧友たちの幾人かが課題で読んでいたが、私の高校ではそれもなかった)。その代わり(というのもおかしいが)、出世作である『郷愁(ペーター・カーメンチント)』は読んでいる。きっとそのうち過去の感想として書くだろう。また授業で短編「少年の日の思い出」は読んだ記憶がある。
 読んだのは高橋健二氏訳による新潮文庫版だが、版が少し古く(昭和63年に改版されたもの)、文字の大きさが変わっている現行版とはページにズレが生じている可能性が高いことをお断りしておく。前置きはこの辺りにして、まずは概要を記す。

概要

 「私」――エーミール・シンクレールは、「自己自身への道」であった自らの青春の物語を、自身が10歳の頃から語り始める。当時、生まれた小さな町でラテン語学校に通っていた彼は、父母や姉たちによる信仰と温情ある光の世界と、世間の多くを占める苦悩や不信心による闇の世界と、その狭間にいる自分を意識していた。
 あるとき、年上の不良少年フランツ・クローマーににらまれまいとしてついた嘘から、彼は苦境に立たされる。その頃、ラテン語学校に転入してきた少年があった。名をマックス・デミアンといった。
 「私」より年上とはいえ、すでに老成した印象を有し、俊才でもあったデミアンは、ある日の帰り道、「私」に話しかける。話題は「私」の家の門の上に付けられた紋章と、その日の授業で扱われたカインとアベルについてだった。勇気と特色を持ったカインとその子たちを、他と区別し復讐するために「しるし」が付けられた――カインのしるしをそう解釈するデミアンの考えに「私」は驚愕する。
 クローマーによって長らく悩まされている「私」を救ったのは、そんなデミアンだった。読心術を使えると語り、どうかしてクローマーを黙らせたデミアンに、「私」は感謝をおぼえつつも不安と反感も抱く。それまでの苦悩やデミアンへの恩も忘れ、「私」は平坦な日常へと還っていった。

 思春期に入り、「私」は再び闇の世界へと踏み入り始めていた。学校の授業に反感を感じはじめた彼は、堅信礼準備の授業で一緒になったのを機に、疎遠になっていたデミアンと再び接近する。
 デミアンは、“思いを遂げるためには、そこに意志を向けさえすればよい”ことや、授業で言及されたゴルゴタの話に対する疑いを口にする。彼によれば、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝が必要であり、あるいは悪魔を包含する神の創造が必要だった。「私」が、自らの抱いてきた2つの世界についての考えを打ち明けるとデミアンは受け容れ、自分の考えを雄弁に語った。
 また「私」には、堅信礼が近づいたある日、生気のない様子で座っていたデミアンのことが思い出される。堅信礼は特段の印象もなく終わり、「私」は父母や姉たちの世界から遠ざかった。学校を変わり、旅立ったデミアンとも離ればなれとなった。

 「私」は生家を離れ「聖…市」の少年塾に入った。
 1年以上が過ぎた頃、年長の寄宿生アルフォンス・ベックとブドウ酒を飲んだのをきっかけに、「私」は飲酒に耽るようになる。内心で孤独を感じつつ荒んだ毎日を過ごす「私」だったが、ふと見かけた少女に心惹かれ、ダンテの『神曲』からベアトリーチェと名付ると、生活を正して崇拝し始める。修行の一環として描き上げたベアトリーチェの絵は、彼女であり、デミアンであり、「私」自身でもあった。
 ベアトリーチェと出会うよりも前、数年ぶりに「私」はデミアンと再会し、酒浸りの「私」に対しアウグスティヌスを引き合いに「道楽者と聖者」を語り鷹揚に構える彼に、敵意すらおぼえていたが、いま改めて彼への憧れをつのらせる。追憶まじりの夢の中でみたハイタカの紋章を「私」は絵に描き出し、宛先も分からぬままデミアンに送付した。

 不思議なことに絵はデミアンに届き、やはり不思議な仕方で返事が来た。「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」で始まるその返信に記された神「アプラクサス」とは、ヘロドトスを講じる教師によれば、古代ギリシアにおいて“神的なものと悪魔的なものの結合”を象徴する名ということだった。たびたび「私」の夢には、大きく強く、男女・聖俗・善悪が混淆するような者――アプラクサスと重なる――が現れ、「私」を抱擁した。憧れと不安を抱いて「私」は翻弄されていた。
 他人に対しては超然としつつ、将来の希望も決まらず落ち着かなかった「私」は、町外れの教会でオルガンを弾くピストーリウスと出会う。アプラクサスの名を知る彼は、神学を修めたが逸脱し、古代の信仰を広く研究しており、自然の形象や夢の解釈などにも通じていた。
 アプラクサスへの新しい信仰を、宗教として確立したいというピストーリウスが語ることは、デミアンと重なっていた。
 一方、同級生のクナウエルと禁欲をめぐって口論した「私」は、夢にみた女の肖像を描くと、それは「私」に「名状しがたく新たな感情」をもたらした。何かの不安にかられた「私」は町を歩き、それはクナウエルを救うことに繋がった。
 「私」は、過去と知識を重視するピストーリウスに対して次第に反感を抱くようになり、やがてそれは決別をもたらした。「私」は後悔するが、最後には“各人の天職は「自分自身に達する」ということのみ”であることを悟る。「私」のひとときの指導者――ピストーリウスは、自らの弱さを認め、「私」がいつか“運命をのみ欲するもの”になれると語った。私の生徒時代は終わり、大学へと進む時が来ていた。

 休暇中、「私」はデミアンと母親が住んでいた家を訪れる。そこで見せられたデミアンの母親の写真は、「私」が夢に見ていた者だった。私は旅立ち、デミアンの母の姿を追い求めた。
 探し求めた人は見つからず、H大学で学生生活を始めた「私」は、その地でデミアンと再会する。デミアンは、「私」にカインの「しるし」がはっきりと現れたと喜ぶ一方、ヨーロッパの現状に対しては嘆き、「滅びるだろう」と口にする。
 今のデミアンの家を訪ねた「私」は、ついに彼の母親に会う。「私」は暖かく彼女――エヴァ夫人に迎えられ、足繁く通いだす。
 エヴァ夫人とデミアンの周りには、「しるし」を持つ探求者たちが集っていた。彼らの信条は多様だったが、現在のものの崩壊と新生が近づいているという予感では一致していた。デミアンは「運命に対する準備」の重要性を「私」に説くのだった。
 「私」はエヴァ夫人と共にいることを幸福に感じ、夢を通して導かれた。「私」の欲求不満に対し、夫人はおとぎ話を語ることで「私」自身の更なる内奥へのいざないとした。
 ある日、デミアンは生徒時代のいつかのように生気のない様子で座っていた。空に巨大なハイタカを幻視し、雷鳴と雨と雹に見舞われた「私」がデミアンのところへ戻ると、彼はそれを古い世界の崩壊と読み解く。

 夏学期は穏やかに過ぎ、ほどなくエヴァ夫人に会えなくなることを覚悟した「私」は、思いを遂げるために夫人に意識を集中する。やって来たデミアンは、戦争の開始を予告した。それは、確かに新しいものの始まりだった。
 デミアンは少尉として出征し、「私」もまた戦地に赴いた。戦場での人間は立派であり、奥底で新しい人間性のようなものが成長しつつあると「私」は感じる。
 負傷した「私」は、運び込まれた部屋で隣に寝ているデミアンを認めた。2人は親密に語り合い、デミアンエヴァ夫人からのキスを「私」に伝えると、去っていった。いま「私」の心の中には、友によく似た自分自身の姿がある。

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会田誠『青春と変態』の感想


(2018年11月読了)

 『氷菓』シリーズで青春の光と影を垣間見てきたが、それらがとても綺麗だった反動で、よりドラスティックな青春というものを読みたくなり、この小説に思い当たった。

 著者の会田誠氏の本業は「現代美術家」だが、その修飾語として「取扱注意の」と付されることがままある。本作文庫版の「あとがき」によれば、「露悪趣味アーティスト」という表現を、著者も自認していることになる。
 「あぜ道」という作品は美術の教科書にも載っているほどだが、上に挙げた表紙画「考えない人」や「犬」、「ジューサーミキサー」など、観る者によってはショックを受けるだろう作品が、特に氏の若い頃には多い。媒体は異なるものの、20代後半の頃に書かれたという本作もまた、それに連なるものと言えるだろう。まずはその概要を示す。

概要

 「僕」は、バスの中で『青春と変態』と題したノートを書き始めた。2年生から3年生への春休み、「僕」が所属する県立北高校スキー部は、県内で同じ程度の実力の県立清和女子高校スキー部と合同で、3泊4日の合宿に入ろうとしていた。バスとは、その合宿先である三ツ村温泉スキー場へと向かうバスである。
 ノートに向かう「僕」を、清和女子の湯山美江が興味深く覗き込む。周囲に「文学カップル」と揶揄されつつも、「僕」はミステリアスな湯山にほのかな好意を抱いていることを認めていた。
 この合宿を終えれば、受験勉強の日々が待つばかり。最後の機会とテンションが上がる2年生たちの中、「僕」は誰にも明かさずにいる自らの「変態」性――常習の「女子トイレ覗き」犯であることをノートに告白し、これまでの経緯を綴る。1年すこし前、たまたま拾った写真投稿雑誌に載っていた女子トイレ盗撮写真に、ある種の精神性すら覚えた僕は、覗きの実践を繰り返してノウハウを蓄積し、“理想的な環境”を備えた合宿先のロッジのトイレで覗きをするべく、期待に胸を膨らませているのだ。

 初日の覗きを成功させ満足した「僕」は、その魅力の一端が「現実の人間関係の中に現れてしまった「悪」」ではない「純粋に観念的な「悪」」にあると表現する。彼が覗きを成功させた対象には、見知らぬ女性たちだけでなく、「オールマイティーへの情熱」を有する性格として「僕」が一目置いている同級生・藤田の交際相手で、部内随一の美人である久保も含まれていた。無機的だったり野性的だったりと、覗き見た女性たちの部分に、「僕」は様々な印象を抱く。
 そんな「僕」に湯山は接近し、「文学カップル」もまんざらでない様子を見せる。それを喜びながらも「僕」は、覗き見た映像と久保を重ね合わせたりし、反芻される「悪」の快楽に震えていた。
 風呂で藤田の性器を見ると、そこから湧いてきた種々の疑問に「僕」は困惑する。一方、お調子者の浅野が女子の脱衣所を覗き、男子は清和女子から厳重注意を受けることになった。

 翌朝の朝食後、「僕」は湯山のトイレを覗くのに成功する。それは「僕」の湯山への恋情が本物であることを自覚させ、覗きを止めることを決意させた。
 成立しつつあるもう1組のカップルと「僕」と湯山の4人は、ゲレンデで輝かしいひと時を過ごす。「僕」は、何も知らない周囲にすれば、無害で公正な「相談役」だった。
 夜、「僕」は「健全な男になるためのお勉強」と称し、カップルの覗きを試みる。対象が誰であってもある種の快楽をもたらす覗きは、「僕」に「完全優位な視点」と「完全劣位な視点」が同時に存在して分化していくという、「覗き哲学」を意識させた。
 その直後に接した出来事により、「僕」は合宿中に湯山に告白することを決意する。
 翌日、競技スキーの練習が、己の内の「変態」を溶かしていくかのように、「僕」は感じていた。

 そして、湯山と「僕」は、ゲレンデの上にある山頂に向かう。夕闇の迫る2人きりの頂で、思いは告げられた。

 幾つもの困難を超え、「僕」はやり遂げた。そしてその成果としての「詩」を、最愛の1人に捧げる。

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亀井秀雄 監修/蓼沼正美 著『超入門!現代文学理論講座』の感想


(2018年11月読了)

 書棚にあったものを、掃除の片手間にふと手に取り、読んだ。本書が属する「ちくまプリマー新書」は、主に高校生程度の読者を想定したものだが、入門書として大人が読んでも差し支えないものが殆どであろう。
 内容としては、4つの現代文学理論を解説し、ひいては「主人公の気持ちにピタッと寄り添」うことが規範とされている(本書p.8)らしい、学校における国語教育に一石を投じたもの、と要約できそうである。ここでいう「現代文学理論」とは、20世紀になって登場してきたものという理解でよさそうだ。
 大学は文学系の学部だったくせに、こうした理論を概説するような授業はあまり受けなかった。そのため、ここに収められた理論が、今日の文学研究においてどれほどの評価を得ているか、それら以外の理論がどれだけ存在するのか、という問いには今のところ私は答えられない。
 ただ、このブログ(『何か読めば何がしか生まれる』)が、物語や読書というものに関わったものである以上、その辺りに完全に没交渉というのも不甲斐ない。3年以上も続けておいて今更ではあるものの、何か得られるものはあるだろうと思い、読み進めた。まずは以下に概要を示したい。

概要

第一講 当たり前が当たり前でなくなる瞬間――〈ロシア・フォルマリズム
 谷川俊太郎の詩「わたし」には、都々逸(例えば「月は十五で/円くはなれど/主の心は/まだ四角」)のような、言葉の物質的な構造を追求した面白さがある。そのような、言葉の構造のみに目を向け、それ以外(作者の来歴や社会的背景など)は無視する研究態度を、旧ソ連の提唱者たちにちなんでロシア・フォルマリズム形式主義)と呼ぶ。

 小学校の教材にもなっている谷川俊太郎の別の詩「いるか」もまた、純粋に「言葉だけで」試みられた詩である。しかし国語教育の現場では、定型的な(父権主義的な?)読みばかりが薦められている。
 ロシア・フォルマリストが関心を寄せたのは、対象を日常から切り離した時に生じる――「泉」で有名なマルセル・デュシャンの言った「レディ・メイド」のような――「異化作用」だった。小説の領域では、伊藤整の『機構の絶対性』にも同種の試みがみられる。

 「異化作用」の目的とは何か。フォルマリズムの提唱者の1人である旧ソ連の文芸評論家ヴィクトル・ボリソヴィッチ・シクロフスキーによれば、それは、当然のものとして見過ごしてきたもの(日常/認識)を再検討し、知覚や意識を覚醒・活性化させる(非日常/見ること)ことである。

 どのように「異化作用」を引き起こすか。一つには、知覚への衝撃を与えること(対象の極端な拡大・縮小、即物的(ザハリッヒ)な描写、なぞなぞ、など)がある。野間宏の『暗い絵』のような執拗な描写を塗り重ねる文体や、白岩玄の『野ブタ。をプロデュース』のタイトルの「。」なども「異化作用」をもたらす手法と言える。
 〈テクスト〉を読む際に「当たり前」に「認識」するのではなく、立ち止まり再検討する「異化作用」的な読み方は、新たな可能性を拓く可能性を持っている。

 現代では「異化作用」が一般化され、奇を衒うような作品が量産されている。この在り方自体を「異化」する必要がある。ロシア・フォルマリストは、芸術の刷新は、前時代の手法の再発見という形をとると考える。流行が繰り返すように、「異化作用」の新奇さも繰り返すということになる。

第二講 辞書にも文法書にも載っていないことばのルール――言語行為論
 イギリスの哲学者ジョン・ラングショー・オースティンは、著書『言語と行為』で〈言語行為論〉を提唱した。これは、従来の言語哲学から取り落とされていた、「真」や「偽」に分類されるのが適当でない、日常の中での言葉に着目したものである。例えば「この船は『エリザベス号』と言います。」という発言(〈事実確認的発言〉)は、その真偽を問題にするが、「私は、この船を『エリザベス号』と命名する。」という発言(〈行為遂行的発言〉)は、それが社会的に妥当であるかという適切さを問題とする。
 アメリカの言語哲学者ジョン・ロジャース・サールは、オースティンの考えを継承し、日常的な言葉(例えば「塩を取れますか?」のような)の「場面」と「意図」について研究した。

 オースティンは発話による行為を3つに分類した。発話行為(発話する行為そのもの)、発話内行為(発話することで行われる発話以外の行為)、発話媒介行為(発話の結果、相手に対して間接的に作用する行為)である。このうち、発話媒介行為のみが、相手によってその内容が異なる(同様に「明日行きます」と言っても、喜んだり困ったりする)ことになる。

 サールは、「試合に勝った」や「結婚した」など規則や法律など人為的なものによる事実を「制度的事実」と呼び、「満月だった」「鳥が鳴いていた」など制度を前提としない事実を「生の事実」と呼んだ。このうち「制度的事実」は、その場に相応しい「話題」や「用語」などを規定する「言説規則」により、知らず統制されている。

 サールはまた『言語行為』の中で、規則を2つに分類している。1つは行為に対して一定の秩序を与える「統制的規則」、もう1つはスポーツやチェスのルールのように競技を統制すると同時にそれを行う可能性を創造する「構成的規則」である。先述の「制度的事実」とは、この「構成的規則」を前提とした事実だと言える。

 以上のような考え方に基づけば、芥川龍之介の「羅生門」は、「統制的規則」が失われた世界で、下人が老婆にその事実を突き付けられる物語ということになる。
 痩せ衰えた老婆が、自身の行為を詰問した下人に期待したのは、「弁明/免罪」という「言語規則」だった。が、老婆の言葉を受けた下人の「発話媒介行為」は、彼女にとって好ましくなかった。
 「統制的規則」が失われたと悟った下人の行動は、日常的な会話というものを規定する「構成的規則」の喪失すら示しており、その日常言語の全面的な崩壊が読者にショックを与えるのである。
 このように、言語行為の視点からテクストを読むことで、登場人物の心理を考えるだけでは至らない読みを開拓することができる。

 オースティンの言語行為論は日常会話を対象として考えられたものであり、小説など虚構の会話を想定されてはいない。しかし、虚構に応用することで、テクストの有効性と、言語行為論の有用性を確認できる可能性がある。
 言語学者時枝誠記は、言語的表現行為が「場面」によって制御されていると主張した。それによれば、下人は相手が老婆という「場面」に接したからこそ、ああした発話を行ったと言える。劇的である分、日常会話よりも虚構の方が理論の表れを捉えやすいことがある。

第三講 読むことのダイナミズム――〈読書行為論〉
 宮澤賢治の「茨海(ばらうみ)小学校」は、“読者は作品という情報の受け手”という読者イメージを改めるのに格好の作品である。
 同作は、農学校の教師である「私」が火山弾の標本や野生の浜茄子を見つけるために出かけた、茨海の高原で遭遇した出来事を描いた作品。高原で「私」は、茨海狐小学校という狐の学校に迷い込む。狐の校長先生に会ったり、午後の課業を見学したり、せっかく見つけた火山弾を強引に寄付させられたりし、混乱して帰ってきたところで物語は終わりを迎える。

 物語が語られるためには、「語り手」が不可欠であり、「作者」と「語り手」はイコールではない。また「語り手」による物語には、「始まり―中間―終わり」という基本構造がある。
 「語り手」と同時に、物語には読者とイコールではない「聞き手」も存在する。「茨海小学校」の「私」も夏目漱石の『坊っちゃん』の「おれ」も、読者ではない「聞き手」を内包して物語っている。
 そうした物語の対話的(dialogic)な有り様に対し、国語教育における〈読書行為〉とは語られた内容の理解が第一であり、「読者」は一元的なものとされてきた。が、「茨海小学校」が示すように、読者は「語り手」「読み手」「狐」といった立場を行き来して作品を理解する、創造的な読み手であることが可能なのだ。そうした〈読書行為論〉を提唱したのがドイツの文学研究者ヴォルフガング・イーザーである。
 「茨海小学校」の「私」が不思議な音や声に引き摺られて狐の学校に迷い込んだ様は、読者が物語に没入していく様に重なる。「いつかどこかで聞いた」種々の物語の経験によって、読者は物語を予期しているとも言える。

 〈テクスト〉を読むことで、読者はその世界に対する「期待」を生み出していく。ドイツの文学者ハンス・ロベルト・ヤウスはそれを〈期待の地平〉と表現した。
 「期待」を生み出す要素としては、作者・作品の情報、本のタイトルや装丁、広告や書評、書店のどの棚に置かれているか、などがある。「期待」は、物語が進むごとに絶えず変容していく。そのような一般読者としての読みが第一で、研究者のために〈テクスト〉があるわけではない、とヤウスは主張している。

 ポーランドの哲学者ローマン・ヴィトルド・インガルデンは、作品に“書かれていないこと”を〈不確定事項〉と名付けた。これに対しイーザーは“書いてあること”の繋ぎ目に生じる、納得し難かったり疑問に思われるところを〈空所〉と名付け、これを自分の経験や想像力で埋めようとする読者を〈内包された読者〉と呼んだ。読者の自然な「期待」を裏切り続け、「わな」や「正直」という言葉の意味を揺らがせ、物語の終点の複数性も示す「茨海小学校」は、読む者に物語に対する積極的な関わりを誘発する。〈内包された読者〉を意識させるテクストである。

 〈読書行為論〉は「読者」による自由な読みを認めるが、無秩序な誤読までを認めているわけではない。その点では理想論的ではあるが、これまでの社会の中でどのように「読者」が形成されてきたかを探る切っ掛けとして今日的な意義がある。
 ロラン・バルトは「作者の死」と言ったが、それでも今日も作品を作者に還元する読み方は廃れていない。本当に意味で「作者は死んだ」のか、それはまだ確かめられていない。

第四講 物語の構造(カラクリ)を知る――〈昔話形態学〉
 旧ソ連の昔話研究家・民俗学者であるウラジミール・ヤコブレヴィチ・プロップは、『昔話集』(アレクサンドル・ニコライェヴィチ・アファナーシェフ編纂)に収められた「魔法昔話」100篇あまりを分析し、共通した31のパーツ――〈機能〉から成り立っているとして著書『昔話の形態学』にまとめた。31の〈機能〉とは、以下のものである。

1.家族の成員のひとりが家を留守にする/2.主人公に禁を課す/3.禁が破られる/4.敵対者が探り出そうとする/5.犠牲者に関する情報が敵対者に伝わる/6.敵対者は、犠牲となる者なりその持ち物なりを手に入れようとして、犠牲となる者をだまそうとする/7.犠牲となる者は欺かれ、そのことによって心ならずも敵対者を助ける/8.敵対者が、家族の成員のひとりに害を加えるなり損傷を与えるなりする/8-a.家族の成員のひとりに、何かが欠けている。その者が何かを手に入れたいと思う/9.被害なり欠如なりが(主人公に)知らされ、主人公に頼むなり命令するなりして主人公を派遣したり出立を許したりする/10.探索者型の主人公が、対抗する行動に出ることに同意するか、対抗する行動に出ることを決意する/11.主人公が家を後にする/12.主人公が(贈与者によって)試され、訊ねられ、攻撃されたりする。そのことによって、主人公が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる/13.主人公が、贈与者となるはずの者の働きかけに反応する/14.呪具(あるいは助手)が主人公の手に入る/15.主人公は、探し求める対象のある場所へ、連れて行かれる・送りとどけられる・案内される/16.主人公と敵対者とが、直接闘う/17.主人公に、標がつけられる/18.敵対者が敗北する/19.発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される/20.主人公が帰路につく/21.主人公が追跡される/22.主人公は追跡から救われる/23.主人公がそれと気付かずに、家郷か、他国かに、到着する/24.ニセ主人公が不当な要求をする/25.主人公に難題が課される/26.難題を解決する/27.主人公が発見・認知される/28.ニセ主人公あるいは敵対者(加害者)の正体が露見する/29.主人公に新たな姿形が与えられる/31.敵対者が罰せられる/31.主人公は結婚し、即位する

 上記のように、物語の構造と機能について分析したプロップの研究は、登場する動物の民俗学的研究に終始してきた、当時の昔話研究に対し画期的だった。第三講の〈期待の地平〉についても考える手掛かりとなる。

 アニメーション映画『シュレック』にも日本の『古事記』にも、プロップの言う昔話の機能を見ることができる。後者の「因幡のウサギ」のエピソードでは「29.主人公に新たな姿形が与えられる」機能が登場するが、鈴木三重吉福永武彦による2つの現代語版『古事記物語』では、原文での意図が汲み取られておらず残念である。

 プロップの理論と同様の見方に至った例として、児童文学者の瀬田貞二が挙げられる。瀬田は物語を「「行って帰る」ということにつきる」とした。確かに、『竹取物語』も『羅生門』も森鴎外の『舞姫』も、これに該当する。漫画原作者・批評家の大塚英志も瀬田の考えに関心を抱き、「行って帰る」と「欠如」と「回復」が、物語の最も基本的な文法である、とした。
 これらを総合すれば、物語とは「行って帰る」こと――「移動」によって、何らかの「変化」が起こるもの、と言える。映画で言えば、『シェーン』『ローマの休日』『男はつらいよ』にも見られる。ただし、『男はつらいよ』の寅次郎においては、フーテン生活が彼の日常であり、浅草に帰る方が非日常である点に注意したい。
 このような、物語を構造と機能で捉える考え方は、創作の理論としても有効である。どんな物語も「基本は同じ」という発想に、主に文学の立場からは抵抗もあるが、ゲーム・アニメーション・映画などの領域では注目されている。
 「移動」と「変化」に着目して中島敦の『山月記』を読めば、李徴の旧友である袁傪の物語として読むことも可能となる。

 文学理論は、読者の感性を相対化し、作品の多様な魅力について自由に考えることを可能にする。また文学以外――歴史や社会学、法学――の領域に拡張される可能性も示されており、言葉が創り出す種々の世界を読み解くツールとしても期待される。

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水谷彰良『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』の感想


(2018年8月読了)

 初夏の頃、Twitterを眺めていたら、絶版となっている本書についての復刊をめぐっての呟きが幾つかあり、興味を惹かれた。ちょうど仕事を手伝った知人が持っていたので、奇縁を感じ、拝借して読むことにした。
 本書が話題になったのは、スマートフォンゲーム『FGOFate/Grand Order)』にサリエーリをモチーフにしたキャラクターが登場するためのようである。私は、まだ冬木市で第4次聖杯戦争が行われていた頃に、知人がそれを読み解くのを横で見ていた程度の知識しかない(それでも、人類史上の英傑や偉人が「サーヴァント」として主人公たちに喚び出されるという基本構造は知っている)。そのため、以下の記述ではゲームへの言及はほぼゼロで、本書に関する要約と感想が大半であるということは予め記しておこう。
 なお、人名・地名などの表記について多少思うところがあるのだが(「ヴィーン」や「ベートーヴェン」など)、それらは本書に倣うこととする(数字表記のみ、漢数字からアラビア数字に変更)。

概要

第1章 誕生から宮廷作曲家就任までの歩み(1750~1774)

 モーツァルトを「光」とすれば「暗」の領分に甘んじていたサリエーリを、再評価しようとの機運が高まっている。
 アントーニオ・サリエーリ(Antonio Salieri)は、1750年8月18日、当時のヴェネツィア共和国の辺境レニャーゴに生まれた。早くに両親を亡くしたが15歳の時に音楽の素養を見出されて教師を得ると、やがてヴィーン宮廷作曲家フローリアン・レーオポルト・ガスマンの内弟子となる。ほか数人の音楽家の知遇を得て、19歳で最初のオペラ『女文士たち』を作曲し、その後の『アルミーダ』が出世作となって、気鋭の音楽家として注目を集めるようになった。
 恩師ガスマンが亡くなると、サリエーリは24歳に満たずしてそのポストの一部を継ぎ、ヴィーン宮廷室内楽作曲家およびイタリア・オペラ指揮者となった。

第2章 オペラ作曲家としての名声の確立(1774~1782)
 宮廷作曲家となったサリエーリはキャリアを重ね、私生活では結婚して父親となる。しかし、君主ヨーゼフ二世の行なった劇場改革により、ヴィーンの劇場事情はドイツ語文化に傾斜。イタリア人であるサリエーリはしばし不遇をかこつが、オラトリオ『イエス・キリストの受難』や、宮廷から休暇を得てミラノのスカラ座で『見知られたエウローパ』を発表するなど各地で活動し、名声を高めた。
 ヴィーンに戻ったサリエーリは活動を再開する。この頃、既にモーツァルトとの関係は微妙なものとなっていた。

第3章 モーツァルトとの確執とサリエーリの円熟(1783~1786)
 モーツァルトは、自分の出世を妨げるためにサリエーリが陰謀をめぐらせている、とする書簡を残している。しかし、その説は合理性に欠け、彼の性格的にも置かれていた状況の面からも、判断材料とするには限界がある。
 ヨーゼフ二世がイタリア歌劇場を再開したことで、サリエーリの仕事には順風が吹き始める。大先輩グルックとの「共作」という形で初めてのフランス・オペラ『ダナオスの娘たち』を成功させ、オペラ『トロフォーニオの洞窟』も大ヒットとなる。モーツァルトとの単幕オペラ対決も、『はじめに音楽、次に言葉』で優勢に終わった。
 モーツァルトの代表的オペラの1つ『フィガロの結婚』の上演に際しても、サリエーリが妨害工作を行なったとの説がある。しかし、劇場改革に伴う“ドイツ語オペラ組”と“イタリア・オペラ組”という構図、台本作者の間の対抗心など、背景には複雑な事情があった。

第4章 モーツァルトとの和解とオペラ作曲家としての危機(1787~1793)
 オペラ『タラール』は、専制君主を打倒する内容もあり革命期のパリで受け、サリエーリにとってパリで最大の成功を収める。これをイタリア語に合わせて改変した『オルムスの王アクスール』もまた大成功するが、それに先だち、先達グルックの死を悼まねばならなかった。
 オスマン・トルコとの戦争に備え、ヨーゼフ二世は再び劇場改革を行ない、劇場や歌手団は縮小された。そんな中、サリエーリは新たに宮廷楽長に任ぜられ、オペラを発表し、家庭も安定して幸福な期間を過ごしている。
 貴族制度を擁護するオペラ『花文字』は成功に終わったが、ほどなくヨーゼフ二世が死去する。後を継いだヨーゼフ二世の弟レーオポルト二世は、サリエーリら先帝の息の掛かった者を嫌い、解任や解雇を推し進めた。
 新帝への反感もあったか、ここでサリエーリはモーツァルトの楽曲を重用。かつては競争関係だった両者は、ここに至り和解した。それから間もなくモーツァルトは他界し、間接的に2人が和解する空気を作ったレーオポルト二世もあっけなく死去した。
 次の皇帝フランツ二世は音楽に興味を示さず、サリエーリは宮廷楽長の地位に残りはしたが、事務的に職務を遂行するに留まった。次なるオペラの準備を進めつつ、モーツァルトの遺した弟子や遺児に教育を施した記録が残っている。

第5章 オペラ作曲家の終焉(1794~1813)
 モーツァルトや娘の死などでしばし停滞していたオペラの創作意欲も次第に復調し、『ペルシャの女王パルミーラ』、『ファルスタッフ』といった成功作を発表した。しかし、もはやロマン派歌劇が到来しようという時代、サリエーリのオペラは次第に時代遅れという評価が下されるようになっていく。イタリア語のテキストについて声楽を作曲するため、ベートーヴェンがサリエーリの教えを受けるようになったのは、1795年頃とされる。
 1804年の『黒人』をもって、サリエーリはオペラ作曲に終止符を打つ。34年間、未上演3作を入れて全41作の製作実績となった。同じ頃に作曲された『レクイエム』は、自身のオペラ作曲家人生に手向けたものだったのかもしれない。
 ナポレオン軍がヴィーン入城を果たし、また妻テレージアが亡くなるが、サリエーリは職務を遂行し、宗教音楽の作曲も続けた。次第にヴィーンの音楽界全体を見渡すようになっていたサリエーリは、弦楽器の奏法について意見を寄稿し、クロノメーターメトロノームの前身)を評価するなどもしている。

第6章 教育者としての活動と晩年の日々(1814~1820)
 ヴィーン会議、それに続く戦争の下でも、サリエーリは職務に励んだ。1816年には、シューベルトを含む弟子たちによってヴィーン生活50周年を祝われてもいる。作曲・演奏、あるいは声楽においてサリエーリは多くの弟子を持ったが、数が増えすぎたため歌唱学校の設立を思い立ち、実現に尽力。これは後のヴィーン音楽大学の前身となった。
 いまやサリエーリは70歳を目前にしていた。身体の不調を覚えながらも、彼は弟子を教え、貧しい音楽関係者を助け、旧作を改訂するなどの仕事に注力した。
 74歳でその生涯を終えたサリエーリだが、その最晩年を汚した一件があった。モーツァルト毒殺疑惑である。

第7章 モーツァルト毒殺疑惑に汚された最晩年と死(1821~1825)
 映画『アマデウス』によって流布された疑惑は、これまで見てきたサリエーリの姿から、そして種々の証言から事実ではないことが分かる。背景にあったのは、イタリア人作曲家ロッシーニのイタリア・オペラがヴィーンで大流行したことによって危機感をつのらせた国粋主義的な勢力の画策であり、老齢かつドイツ語に堪能でなかったサリエーリ自身の言動がこれを助長したものと思われる。ただし、彼の死までの1年半について、自殺未遂、罪の告白、精神錯乱などがあったという事実は確認できない。
 先行する文献は、各人によるサリエーリ擁護の言説を各個に独立したものとして扱ってきた。しかし、既に警察国家であったヴィーンにあって、それらはモーツァルト毒殺容疑が刑事事件として捜査されたことを示す。
 そうした文脈から、サリエーリ弁護の論陣が張られたものの、ほどなく当のサリエーリは死去した。その後も疑惑は人々の関心を集めたが、モーツァルトの遺族は信じなかったと思われる。
 およそ10年後、ロッシーニにサリエーリと同じような疑いがかけられ、これは明確に覆された。今日に至っても、サリエーリが被ったような冤罪の構造は失われていない。

補章 現代のサリエーリ復興
 忘れられていたサリエーリのオペラは、作曲者生誕200年を迎えた1950年を契機に復活することとなった。生誕250年に当たる2000年には、故郷レニャーゴで彼にちなむ催しも行われている。
 サリエーリに関する近代以降の主要な研究書としては、以下のものがある。
○アンガーミュラー『アントーニオ・サリエーリ、生涯とその作品』(1971~74)、『アントーニオ・サリエーリ、事実と史料』(1985)、『アントーニオ・サリエーリ、その生涯の記録』(2000)
○デッラ・クローチェ/ブランケッティ『サリエーリ問題』(1994)
○ライス『アントーニオ・サリエーリとヴィーン・オペラ』(1998)

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